自分が笑えば、誰かも笑う–お笑いとアートで課題解決に挑む釜石の女子高生–[3.11がくれた夢〜東北を変える高校生たちのアクション〜]

「私の経験から震災を取ったら何も残らないかもしれない」。
岩手県立釜石高校2年、寺崎幸季さん。昨年参加した東北の高校生向けのアメリカ留学プログラムで同じチームとなり、共に3週間を過ごした。
上の言葉はプログラム期間中に移動の電車の中で彼女がふとつぶやいた言葉だ。3週間沢山のことを語り合ったが、僕の中にはずっとこの言葉が印象強く残っていた。

帰国後、彼女と改めて連絡を取りあのつぶやきに込められた想いを聞くべく取材をさせてもらうことにした。

震災当時は小学校6年生。学校が終わって、友人と釣りをしている時に地震が起きた。渋滞になった車を乗り越え、なんとか高台に避難した。津波に飲み込まれる街。悲しみとも、なんとも言えない気持ちから笑いながら街を眺める人もいた。
彼女はその後避難生活を送る。母の安否は3日間分からなかった。電気はもちろん通っていない。極度のストレスからPTSD(心的外傷後ストレス障害)になっていた。
母がお笑い好きだった彼女の家のテレビには、幼いころからずっとお笑い番組が映し出されていた。だからお笑いが大好きだった。

カウンセリングを受けてもストレス障害は治らず、辛くて辛くて仕方がない中、当時(もちろん今も、であるが)大好きだったお笑い芸人のNONSTYLE 石田さんに手紙を書いた。手紙の内容はよく覚えていないのだが、自分の様子と気持ちを知って欲しくて、それをはがきに書いて送った。
返事はなかった。しかし、手紙を出した一週間後、やっと電波の通った携帯電話で石田さんのブログを開くと彼らの「ネタ」が公開されていた。

こんな時だからこそ笑わすのが仕事ちゃうんか?

辛い時やからこそ、このブログ見てもらえた時にクスッとでもしてもらえたら意味があるんちゃうか?

だからおれやります。

不謹慎やとか叩かれるかもしれない。

でも逃げない。みんなめちゃくちゃ戦ってるんやから。

気分悪くした方はすみません。

全力でふざけます!

これがおれのできることやから。

(「いしだあきらのオカヤドカリなブログ」2011.3.15より引用)

「みんなに笑顔を」と題し、ネタをブログに公開して行くこの企画はほぼ毎日、多い時には1日に3回以上も更新された。
「電気が通っていなかったから、明るいうちにネタを読んで、笑って元気になっていました。石田さんのことが大好きだったから、本や雑誌も沢山持っていたんです。今思うと、石田さんの更新してくれていたブログやNONSTYLEの本を読んで毎日笑えたことがストレス障害への最大の薬だったかもしれません。」

避難生活の後、3月末に小学校を卒業した。体育館は避難所になっていたので音楽室で卒業式を行う予定だったが、体育館に避難していた方々の「体育館で卒業式を」との声から、避難所は一時的に卒業式場となり、例年通り体育館で卒業式を行うことができた。

中学校に進学した寺崎さんは吹奏楽部に入部。練習に追われる忙しい毎日を送っていた。すると7月「よしもとあおぞら花月」と題し、桂文枝さんをはじめとする5組の吉本興業所属芸人が釜石市でライブを開催した。
お笑い好きの彼女はもちろんこのライブを見に行った。

「人生で初めて、お笑いを見て感動して泣きました。この時、桂文枝さんともお話しすることが出来て、『芸人になりたい』って言ったら『待ってるよ』って言ってもらえたんです」。

避難生活中も自分を救ってくれた吉本のお笑い。そしてこの時、またお笑いに勇気づけられ夢をもらった。涙を流しながらライブを見ていた彼女。
この姿が思いもよらない出会いを生むことになる。

約半年後のある日、学校の教室に部活の顧問の先生から内線電話がかかってきた。
「お前、あの時吉本のライブ行ったのか?」
やばい。あの時は部活を休んでライブを見に行っていた。厳しい顧問の先生にそれがばれてしまったのだ。
「はい、行きました」。
そう答えると案外電話はあっさり終わった。そして数分後、一人の男性が教室に入ってきた。
「吉本興業です」。

実はあのライブのとき、会場の映像に寺崎さんが涙を流す姿が映っていた。それを後から見た桂文枝さんは「自分たちは笑顔を届けに行ったのに、何故彼女は泣いていたんだ?」と疑問に思い、スタッフが理由を調査に来たのであった。写真を持って町中を歩き、彼女を探していたらしい。
あのライブのことや、お笑いとの関わりについて取材を受け、憧れだった吉本のスタッフと大好きなお笑いについてたくさん話すことができた。

あのとき言えなかった「ありがとう」を

お笑いで何度も助けられた自分。今度は自分が笑顔をつくりだす側になりたい。彼女は小学校の時からの友人とある計画を立てた。
「自分たちの卒業式のために体育館を空けてくれた、あのとき体育館に避難していた人たちに恩返しをしたい」。

寺崎さんは吉本のスタッフと連絡を取り、小学校の体育館でお笑いライブを開催したいと伝えた。部活も忙しく、かなり厳しい環境だったが、友人たちと一緒に避難所のリストからあの時体育館に避難していた人を探し出し、招待状を送った。

2012年7月29日。中学2年生になった寺崎さんは友人8人と共に釜石小学校の体育館でお笑いライブを開催した。当日は会場作りなど、お笑い芸人を「支える側」として動いた。「あのとき言えなかった『ありがとう』を伝えたい」という思いで企画し、吉本興業がその思いに共鳴して作り上げたライブには140人以上が足を運び、体育館は笑いに溢れた。

「芸人になりたいと思っていたけど、このときの体験を通して吉本興業の社員になりたいと思うようになりました。笑顔を作る人たちを支える側になりたいんです」。

紙の大聖堂

ニュージーランド留学

ニュージーランド留学

寺崎さんの住む岩手県釜石市はラグビーの盛んな街だ。2019年に日本で行われるラグビーワールドカップの開催都市の1つにも選ばれた。

2013年3月、彼女はニュージーランドのクライストチャーチに渡った。東日本大震災の少し前、2011年2月22日にニュージーランドのカンタベリー地方はマグニチュード6.1の地震におそわれ、クライストチャーチは特に被害を受けた都市だった。また、ラグビーはニュージーランドの国技であり、釜石と同じようにクライストチャーチもとてもラグビーが盛んな地域である。

釜石の高校生とクライストチャーチの高校生、地震による被害を受けた両都市の学生が絆を深め、防災について考えるプログラムに参加した。
このプログラムの中で彼女が特に心に残ったのは「紙の大聖堂」だった。

紙の大聖堂は日本の建築家の坂茂(ばん しげる)さんの設計によるものだ。彼は阪神淡路大震災や中国四川省での地震をはじめ、世界中で起こる災害の後に現地に紙管(紙製のチューブ)を主な建築材料とする教会や小学校の仮設校舎、仮設住宅などの建設を行ってきた。
建築家として「自分の出来ること」「好きなこと」から多くの人たちを助けている。

「このプログラムに参加した時からかもしれません。自分の街の課題に好きなことで向き合って、解決していきたいなって思ったのは。」
紙の大聖堂から受け取ったメッセージ。また、クライストチャーチで目にした仮設住宅。日本に帰ってから、これらは彼女の行動に大きな影響を与えることになる。

こんなの「家」じゃない

2014年9月、「全国高校生『鎌倉』カイギ」というイベントがあった。「町のために何かしたい」という想いを持った高校生が全国から集まり2泊3日で「マイプロジェクト」をつくり、発表するという企画だった。そこで彼女は改めて自分の町の課題を考えた。その中で気になる記憶が二つあった。

1つは仮設住宅について。自分たちの住む仮設住宅を誰も「家」と呼ばないことに違和感を覚えていた。学校から帰るときも、買い物から帰るときも「先に『仮設』に帰ってるね」と口にする。無機質な感じですごく嫌だった。だからあるとき友人に聞いた。「なんで『家』って呼ばないの?」
友人の答えはとてもはっきりしていた。
「え?だってこんなの『家』なんて呼べるわけないじゃん!灰色だし、真四角だし、隣の音は聞こえるし!」
あまりにも当たり前過ぎる答えだった。
そう言えば自分も「家」とは呼ばない。「家」って愛着があって、思い出があって、家族みんなで作ってきた場所。そういうものにならない限り誰も仮設住宅を「家」と呼ぶようにはならないんじゃないか、と思った。ニュージーランドで見たものと比べても釜石の仮設住宅はあまりにも「家」ではなかった。

そしてもう1つ、中学1年生の時のことを思い出した。2012年2月、釜石市を芸術家の日比野克彦さんが訪れた。「釜石アート支援プログラム」という取り組みの中で、仮設住宅の壁面に色とりどりのマグネットを貼り、作品制作を通して住民同士のコミュニケーションの機会を作ろう、という企画だった。芸術系の大学を卒業した母の影響もあり、彼女自身もアートはお笑いと同じくらい好きだった。自分の住む仮設住宅に日比野さんが色とりどりのマグネット貼っていったその時のことはとても感動した記憶として心に残っていた。

この二つの記憶から彼女はマイプロジェクトを生み出した。

釜石girlsによる仮設住宅での交流イベント。正面一番右が寺崎さん。

釜石girlsによる仮設住宅での交流イベント。正面一番右が寺崎さん。

仮設住宅をみんなが「家」と呼ぶことのできるものにしたい。
そのためにみんなと一緒にマグネットアートで仮設住宅を彩って、愛着を持てるようにしたい。仮設住宅だからこそできる思い出の作り方で、自分の大好きなアートでこの問題を解決したい。

そして11月に行われた、Asyoka ユースベンチャー(社会課題の解決を試みる12歳-20歳の若者を支援する取り組み)パネル審査会でこのプロジェクトを発表し、審査を通過した。彼女は「ユースベンチャラー」として社会課題の解決を試みる10代の一員となった。

彼女は現在、友人と「釜石girls」という団体を立ち上げ、その代表として仮設住宅内で住民同士のコミュニケーションを活発にする取り組みを行っている。住民同士に十分な絆が生まれてから、今年の秋を目標に準備を重ね、マグネットアートの取り組みを行うつもりだ。

自分が笑えば、誰かも笑う

実は、寺崎さんは中学校を卒業したあと吉本興業に就職しようと、東京に面接を受けに行った。ニュージーランドの留学から日本に帰国するのと時を同じくして、吉本興業が中卒も採用するという方針を発表したからだ。最終選考で落ちてしまったのだが、是非大学を卒業してからもう一度受けにきて欲しい、と面接官に言われた。この時、彼女が面接に備えて暗記した吉本興業の社訓を紹介したい。

「我が社の社員の幸せは、自らが楽しんで生きることで、社会に貢献し、人々を幸せにすることである。我が社の社会への責任は、人々や自分自身が笑顔や笑い声を、いつも持てるようにすることである。」

まずは自分が楽しむこと。
まずは自分が笑顔になることから周りの人たちを笑顔にしていく。
仮設住宅を「家」と呼ばないのは何故だろうと考えた時、そもそも自分もそう呼べていないことに気づいた。まずは自分が変わらなければきっと周りも変わらないのだ。

地域貢献には本当に様々な方法がある。でも好きなことで貢献しようとするとき、そこにひとつ吉本興業の社訓と同じようなメッセージを読み取ることができる。
好きなことなら少なくとも自分は楽しい。だからまずは自分が笑顔になれる。誰かを笑顔にしようと一生懸命になったとしても、きっと笑顔を作る側が辛く悲しそうな顔をしていたら誰も嬉しくなどないはずだ。避難生活の時、ブログを通して笑顔をくれたNONSTYLEの石田さんも、釜石でライブを開催してくれた桂文枝さんたちも、紙の大聖堂を作った坂茂さんも、マグネットアートを仮設住宅に貼った日比野克彦さんも、みんな好きなことで誰かの力になろうとした。だからとてもとても輝いていて、彼女に笑顔だけじゃなく夢も届けてくれたのだろうと思う。

彼女の夢はまだまだ始まったばかりだ。釜石でのマグネットアートはもちろん、大学進学、吉本興業への就職、と沢山の夢がある。

まずは自分が楽しみながら。
自分が笑顔になり、自分が変わることから彼女は誰かに笑顔を、誰かに変化を届けていく。

文/西村亮哉 福島県立安積高校在学中