霧が立ち込める小雨の中の田園に、一台また一台と車が畦に集まる。地元の子どもや首都圏の人々が田植えをした田んぼの草取りに集まった、村役場や商工会など面々だ。それぞれ眠い目をこすりながら、腰をかがめて泥に足を取られながら作業を始める。
除草剤を使った田んぼには、草取りは必要ない。作業を行う無農薬の田んぼにだけ雑草の若葉がびっしりと生えている。「無農薬で米作りをする前は、草取りをしたことがなかったよ」そう語るのは作業に集まったひとり、天栄村産業振興課の吉成邦市(くにいち)さん。
草取りを行う田んぼは、代々吉成家が稲作を行ってきた田んぼだ。苗の手植えや草取りなど稲作農家がしない手間のかかる作業を、地域交流のために行っている。吉成氏に勧められ、無農薬と除草剤を使っていた田んぼの匂いを嗅ぎ比べる。雑草が全くない田んぼの生臭い匂いと対照的に、雑草だらけの田んぼには、かすかな草の香りが感じられる。「無農薬の田んぼは、土の中の微生物が働いているんだな。発酵と腐敗の違いかな」と役場の始業時間を気にしながら、吉成氏は作業の手を休めずに答えてくれる。
世界一から一転、見えない敵との格闘の日々へ
吉成氏は村役場の職員の他に、天栄米栽培研究会の事務局長という顔を持つ。震災以前8年前に稲作農家と立ち上げた研究会では、山間地の放棄田の再生や新しい無農薬農法の習得・実践など「安心安全な米作り」という旗印の元に活動してきた。
天栄村を含む福島県南地域は優良な米を生産する地域だが、知名度が今ひとつだった。そこで吉成氏は大胆な一手を打つ。米・食味鑑定士協会の協力を取り付け、米の炊き方や試食などを協会が定めた全国一律の食味判定を使った、村主催の「米食味コンクール」を開催したのだ。 村内コンクールで優秀な成績をおさめた米は米・食味分析鑑定コンクール国際大会に出品され、米どころの各地の米にもひけをとらず、特に食味の良い米に贈られる特別優秀賞を受賞するなど天栄村の米の品質を裏付けることとなった。その取り組みは、稲作農家の考え方を"収量から食味”へ変化させていった。
そんな日本一の米を作る村として、首都圏との交流や販路の拡大など活動をしていた矢先、2011年3月を迎えることになる。
福島原発から70キロ離れた県南部に位置する天栄村でも、事故直後は1キロ当たり1128ベクレルの放射性セシウムが田んぼの土壌から検出される。研究会メンバーを初め村の農家は、役場の窓口である吉成氏を訪ねて、眠れない日々の窮状を訴えたという。「農家の方には、(放射性物質)をゼロにするから作付けしましょうと答えていました。放射能を何とかする根拠も無かったよ。ただ心休まる言葉をかけたかった」と吉成氏は当時を振り返る。
国や県が対策に後手を踏む中、吉成氏は個人で情報を収集しセシウム収着資材の散布や、検査機器の導入を村独自で進めていった。吉成氏自身も放射線取扱責任者の資格を取得し、今まで前例のない放射能という問題に無我夢中で農家と取り組んだ。
2011年の秋に県内で収穫された玄米からは、基準値以上の放射性物質が検出される中、天栄村産の玄米は全てND(不検出)という肩をなでおろす結果に。昨年度(2014年産)までNDは続いている。
”風化”するからこそ、人は生きていける
草取りに勤しむ人々以外は、事故がなかったかのように静かな田園。吉成さんがぽつりと漏らす「事故が本当にあったのかな? 今はそんな感覚になっているんだよね。自分の取り組みを何かで見ても、一読者・視聴者という感じがするんだよ」
事故後から5年目の夏を迎えようとしている今、様々なメディアに村の取り組みが報導されてきたが、吉成氏自身は事故当時を日常で意識することはなくなったという。“風化”という言葉はネガティブに使われがちだが、いい面もあるのではないかと言う。「俺達は今の生活が一番大切。当時みんなで取り組んだ試みが評価されることはうれしいが、それはもう過去の事。起きた事は決していい事ではなかったが、今やるべき課題が見えた出来事だった。苦境に立たされないと人は、問題の本質に目をむけないでしょ」
そんな現在、吉成氏の心に引っかかるものは「家族と地域」。地域経済に活力を与える仕事に専念してき人間として、それは当たり前にあるものであり、あまり意識していなかった事だった。
その重要性に気づくきっかけは、今年東京から福島に帰ってきた娘の存在だった。親子で再び暮らす今の生活が純粋に"楽しい”という。「だからこそ、村民として行政として農村に若い人が住み続けられる環境作りをしてきたかと自問したんだ。与えられた制度は行政マンとして活用してきたつもりだが…。それは福島以外の全国どの農村でも同じ問題だと思う。そういう意味では、問題を抱えながらも歩んでいるトップランナーの地域という自負はある。福島の農村ができれば、他の地域もできるんじゃないかって」
農村は、青年期から成熟した大人になる時
事故直後は停滞していた取り組みも、現在の状況を踏まえながら動き出している。事故以前から交流してきた首都圏の人々の他にも、研究機関や国内外から訪れる学生達、また福島と同じように問題に直面しながら生活をしてきた水俣や沖縄などの地域との繋がりは、むしろ広がりを見せている。福島産の食料の輸入禁止が続く台湾の米業者も現地視察に訪れた。コンクールの特別優秀賞も事故の年を挟みながら、7年連続受賞という快挙を続けている。
米本来の商品力で勝負する。天栄村産の米への吉成氏の考え方は事故後も一貫している。2011年当時も吉成氏は、基準値以内でも放射性物質が検知されれば米の出荷を見送ることを決定していた。「自分の子どもに悪い物が入った食べ物を口にさせたい親はひとりもいない。だからゼロにはこだわった」という。こだわりを持続できたのは、制度や資金ではない。米を口にする対象を家族や地域に置き換えたからこそ導き出された、至極真っ当な誰でも分かる結論だった。
畦にはいつしか車の交通量が多くなり、登校途中の小学生は大きな声で挨拶を残して学校へと急ぐ。震災前と変わらない一日が動き出す。
「"子どもには子どもの人生がある”と言うけど本当かな? 俺たち大人がその言葉を盾にして地域や生活で何をしてきたかメッセージを送ることすらしてなかったんじゃないかって。今の地域や家族では、生活自体が見えづらくなっていると思う」人や物資を都市に供給し続けてきた天栄村のような農村も、様々な経験をしてきた青春期から、自分の主義主張を定めて生活する“成熟期”に入らなければいけないと吉成氏は感じている。
田んぼの草取りは、除草の目的の他にも人が入ることによって、酸素が土壌に供給され稲の成長を促す作用もあるという。田んぼの土に直接手をいれるような、社会活動全ての土台である地域や家族へ地道に積み重ねるような関わり方が、改めて問われているのではないか。吉成氏は通り過ぎていく希望たちに、丁寧に元気よく挨拶を返していた。
文/江藤純