震災以降立ち上がった東北の団体のリーダーの元に、若手経営人材「右腕」を3年間で約200人派遣してきた「右腕派遣プログラム」。東北で活躍する「右腕」とリーダーのインタビューを紹介します。
「大堀相馬焼」WAZAtoBAプロジェクト・松永武士さん
震災後、実家の家業でもあり震災によって途絶えつつある、伝統的工芸品「大堀相馬焼」のリブランディングを手がける、福島県浪江町出身の松永武士さん。もともとは家業なんて興味はなかったという松永さんに、プロジェクトを始めたきっかけや目指しているものについて、お伺いしました。
―どういったきっかけで今のプロジェクトを始めることになったのですか?
SFC在学中に起業していて、中国で事業を展開しようとしていたのですが、出発直前に震災が起きました。事業のために借りたお金や仲間との約束のことを考えると、行かないという選択はできず、両親の無事を確認して、中国に向かいました。なので、1番大変だったであろう時期に海外にいたので、何もできなかったという思いがありました。
また、僕の地元は浪江町にあり、実家は大堀相馬焼という伝統工芸品を300年つくり続けている窯元でした。原発事故が起きて、「もう帰れない」とわかった時に、残すものがないのは悲しいと思ったのですね。過去の先人たちから受け継いできた歴史や文化が、消えてしまうというのはもったいない。別の方法で根付かせる方法を考えたいなと思いました。お金を回しながら、持続的に文化や歴史を残せないかと思ったんです。
―ご実家が、窯元なのですね。前から「将来は自分が継ぐぞ」という気持ちでいらしたんですか。
震災前はむしろ、興味が全くありませんでした。高校までは福島でずっと暮らしてきましたが、地元には飽きてしまっていて、あまり未練を持たずに東京に出てきました。
―じゃあ、震災がきっかけで、その価値観が変わった。
ゼロになってしまった、ゼロというかもはやマイナスになってしまったので、どうやったらいいかわからないことだらけなんですよね。地域の文化を代々受け継いできた人たちも、上の世代の教えを一生懸命勉強して継承していたけれど、ゼロからやるっていうのは経験がないことだったりする。僕も出身は浪江だけれど、東京や海外に行って新規事業を作ったりした経験も少しはあったので、そういったアプローチが役立つといいなと思ったのがきっかけです。そこをETIC.さんの創業支援プログラムで後押ししてもらって、今に至りますね。
―もともと地域には何軒ほどの窯元さんがあったんですか?
震災前は25軒ありましたが、郡山やいわきなどへ移転して、県内で再開したのは7軒です。あとは県外にも3軒くらい移転しました。もともと職人さんが高齢で後継者がいなかったり、売り上げが下がっているという状況もあり、半分くらいは震災を機にやめてしまいましたね。
僕らの親世代は、バブルがはじけて、売り上げがガタンと落ちて一番つらい時期を経験しています。なので、子ども世代には継ぐことをあまり推奨しない人が多いようで、僕も両親には「継げ」とかは言われたことがありません。そうこうしているうちに、震災も起きて担い手がさらに減ってしまって。
―そうなんですね。商品のWEBサイトを見せてもらいましたが、音がすごく綺麗だなと思って。
相馬焼は、窯だしをした際にひび模様が入るのが特徴の1つで、あの音はその時に鳴るものなんです。伝統を生かしつつ、現代の生活様式や感性に合わせた商品を出していけたらと思っていて、アーティストとコラボした湯呑やアクセサリーを作ったりもしています。
―これまでも頑張って事業を進めてこられたと思いますが、今回右腕に加わっていただいて、飛躍させたいのは、どういう部分なんですか。
これまでは実家の窯元とだけしかできなかったのですが、それですと、地域全体に広がっていきません。ありがたいことに大企業から大口で発注を頂いたりもするのですが、限られた納期の中で一つの窯だけでは焼き切れず、お断りをせざるを得ないというもったいない状況です。また、年に5~6回は、海外の展示会でも販売しています。実家の窯だけでは生産量が限られるので、今後はうまく製造を他の窯元さんと配分してみんなでやっていけるようにしたいんです。
窯元では、職人さんを雇い、作ってもらったものをもとに、釉薬で自分の好きな絵や色をつけて販売します。ただ、今は職人さんが一人しかおらず、うちの窯も含めて、いろんな窯を掛け持ちしている状態です。また、窯元と窯元の間でのコミュニケーションもあまりとれていないので、このプロジェクトを通して、お互いがんばろうとモチベーションをあげていく場にできればと思います。「自分の代で終わらせよう」という高齢の方が、次の代につなげようと思ってくれたらいいなと考えています。
―右腕には、どういう役割を担ってほしいですか?
相馬焼にはもともと問屋がなく、窯元が独自に福島市や仙台まで行ったりしている状態でした。有田焼とか九谷焼などの他の地域ですと、ちゃんと問屋がいて、窯元から買い上げて流通の責任を持ち、営業して東京で売ったりしている構造がちゃんとあります。相馬は、製造も営業も強みを持てず、どっちつかずになっているのが現状だと思います。6次産業化として製造から流通まで全部一貫してやるにも、まず相馬焼が売れるようにならないと、「問屋はもういりません」という構造にはならない。
なので、右腕の方には窯元さんを回りつつ、得意不得意を見極めて、製造の管理の仕組みを整えていただきたいです。もちろん丸投げするわけではなく、最初は僕自身も一緒に回り、どういう仕組みで製造するのがいいか、一緒に考えながら固めていけたらと思います
―どういう方が向いているでしょうね。
伝統工芸に携わったことがなくてもいいので、ある程度大きな企業で製造管理などの経験がある方に来ていただきたいですね。僕自身、これまでベンチャー的な立ち上げを経験してきてはいますが、安定期を経験したことがないんです。そういうビジネス経験をつまれてきた方と、チャレンジできたらいいなと思いますね。あとは、東京的な言語も喋れて、地域のおっちゃんたちとも喋れる、柔軟な方がいいなと思います。
―その人と一緒に、どういうゴールを目指していくんでしょう
震災前は、相馬焼全体の売り上げ規模が年間で3億くらいあったんです。窯元の数はだいぶ減りましたが、やはり3億くらいまでまずは戻したいですね。窯元さんや職人さんたちが、生活に余裕を持てることは大事だと思っています。他の窯元さんの子どもと話していると「あんまりお金がないから継ぎたくない」という人も多いんです。自分自身も子どもの時、家が土日も忙しくて旅行なんかは親戚の人と行くような感じで、「サラリーマンの家はいいな」って思っていました。
―無理をして作られたものじゃなく、作り手が幸せに生きていたり、持続可能であったり、そういうものを使いたいなと買い手側としても思います。子どもの頃から、そういう大変そうな状況を見ていたけど、やっぱり面白みもありましたか。
父はたまに海外に行っていましたし、震災前はアメリカに結構卸していたんですよ。伝統って、普通だったら行けないような場所にものを置かせてもらったり、いろんなものを飛び越えることができる。それが長年続いてきたということの価値ですよね。みんなが応援してくれますし。子どものときはそういう良さはわからなかったけど。このプロジェクトも、最終的にはやっぱり地域での雇用に繋がるといいなと考えています。こういうものを好きになってくれて、「かっこいいから就職したい」とか「こういう事業に携わりたい」と思う人が増えたらいいなと思いますね。
―そうなるといいですね。ありがとうございました!
聞き手:田村真菜(ETIC.スタッフ)/書き手:馬場加奈子
記事提供:みちのく仕事(NPO法人ETIC.)
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