震災以降立ち上がった東北の団体のリーダーの元に、若手経営人材「右腕」を3年間で約200人派遣してきた「右腕派遣プログラム」。東北で活躍する「右腕」とリーダーのインタビューを紹介します。
そう遠くない将来。日本食ブームが続く海外で、最高級の魚介類が振舞われている。その産地表記は「メイド・イン・ジャパン」ではなく「メイド・イン・北三陸」。外国人たちが、あたりまえのように「KITA-SANRIKU」の名前を口にする時代の到来。
自分のふるさとを、世界が睡涎する最高級海産物ブランド発祥の地に育てる。そう決意して、東北は岩手県の最北端、洋野町から世界を見据える起業家がいます。株式会社ひろの屋代表取締役、下苧坪 之典(したうつぼ・ゆきのり)さん。「日本産」、「岩手産」で流通していた地元の産品を、独立したブランド「北三陸産」、「洋野町産」として売り出し、世界に向かう姿に迫りました。
豊かな北三陸の海に、あぐらをかいてしまった
「若いころは、まさか自分が洋野町に戻ってくるなんて思っていませんでした。」下苧坪さんから、意外な答えが返ってきた。
「北三陸は、三陸地域の中でも資源が豊かな漁場です。三陸は黒潮(暖流)と親潮(寒流)が交わる場所で、世界三大漁場のひとつです。その中でも北三陸は、大きな湾もなくすぐに外洋に面している。つまり、天然ものの高級魚が豊富に獲れやすい環境にあるのです。三陸の他の地域の漁師が数百万円しか稼げなくとも、北三陸は一千万円プレーヤーがあたりまえのようにいました。私の実家は元々水産業を営んでいて、約120年前に曽祖父が北三陸のアワビを香港に向けて輸出し始めました。当時は、北三陸地域が三陸1位の生産量・輸出量を誇っていたのです。」
しかし、漁師をはじめ水産業の後継者は育たなかった。なぜか。
「豊かすぎたのが、いけなかったのだと思います。考えなくとも魚は売れます。時代の流れを読もうとも思わなかったし、商品開発や流通の開拓なども行ってきませんでした。結果、後継者を育成できず、過疎化と高齢化が進み、地域として寂れて行きました。」
下苧坪さんは、八戸の大学を卒業後、車のディーラーや生命保険の営業などを行いながら都市部で過ごしていたが、あるとき父親が突然倒れた。
「バブル期以降、豊富に採れていた魚種も変化し、水産ビジネス自体が、父の時代の勢いあるものとは全く別の形になってしまいました。だから私は、本来の「北三陸の宝」を伝えるというミッションのため、自分の会社を立ち上げて、仕切り直しすることを条件に洋野町に戻ったのです。」
こうして2010年、洋野町に戻った下苧坪さんは、株式会社ひろの屋(資本金300万円)を立ち上げた。
「メイド・イン・ジャパン」から、「メイド・イン・北三陸」へ
北三陸の海産物は、他の地域と一緒にされて「日本産」、「岩手産」で流通し、挙句の果てに買い叩かれていた。そこで立ち上げたのが「北三陸ブランド」だった。
もともとは、北三陸沖で採れる鯖やイカ等の一次加工を主としていたが、あわびやウニ、わかめ等も天然ものにこだわり、加工品にも力を入れてブランド創造に力をいれてきた。
そんな中、2011年3月11日、東日本大震災が発生。家族や従業員と高台に逃げて見えたのは、船や建物が次々と津波に飲まれていく光景だった。開発した新製品も流された。母が、「之典、終わったね。」と静かにつぶやいた。
だが、終われなかった。この危機を最大のチャンスに変えなければ、本当に洋野町は終わってしまうと思った。
台湾そしてアメリカへ。ニーズを見極め開発する。
下苧坪さんは、元々海外志向だった。高校生時代にホームステイで海外に行った影響か、120年前に海を渡って富を築いた曽祖父の影響なのか、「いつか世界で通用する人間になる。」という望みがあった。震災後、足は自然と海外に向いていった。
「いま注力しているのは台湾です。現地のパートナーと一緒に、北三陸の海産物を広めています。まずはうまいものを知っていただき、いつか北三陸に来てもらいたいですね。」
一時期、台湾政府による日本産食材の輸出規制が話題になったこともあったが、検査をし、「放射能証明」と「産地証明」を付けて出荷するので安心・安全で、愛されている。さらに商品開発にも余念がない。その一例がアワビだ。これまでの輸出は主に乾燥アワビだったが、新たに商品化した「塩揉み熟成アワビ」は、加工コストが乾燥アワビの10分の1ですむ上に、調理する際の水戻しも不要。旨みも凝縮されている。安くて調理もしやすい上にうまいということで、台湾の飲食店では大好評だ。現在、下苧坪さんが扱う全商品のうち、台湾への出荷は5%。これを3年以内に20%まで上げたいという。
「現在、世界的に日本食ブームが続いていますが、この流れは東京オリンピック後も継続すると考えています。とはいえ、人気が高騰するのも2020年までで、今のような急成長はもうないでしょう。つまり2020年までにいかにブランド化できるか、日本食ブームに乗って北三陸のブランド力を築けるかが重要なのです。」と、下苧坪さんは言う。
昨年からアメリカ、最近は香港の事業者とも取引が始まった。どの地域も、現地に住む日本人や日系人など、本物の日本食を食べたい人をターゲットにしている。
また、同じ海産物でも地域によってニーズは異なる。アジア圏は「天然もの」のニーズが高いが、アメリカでは環境問題や食への関心が高く、サスティナビリティやトレーサビリティを意識するため、むしろ「養殖もの」が好まれる。しかし、切り立った崖の下にすぐ外洋が広がる北三陸の海は養殖に向かない。下苧坪さんは、お国柄にも合わせていずれは北三陸でも養殖漁業ができるようにしたいという。
求む!海外展開の責任者!
順風満帆に見える下荢坪さんの活動だが、課題もある。たとえば、肝心の地元の住人が北三陸の魅力に気づいていないこと。
「まずは地元の住民に北三陸の魅力を気付かせなければいけないのです。でないと、いざ外から「北三陸は凄いらしい!」と人が来てくれた時に、胸を張って自分たちの魅力を語れません。私の仕事のひとつは、北三陸の魅力がわかる仲間を、地元に1人でも多く作ることです。」
下苧坪さんは現在、ともにビジネスに挑む「右腕」を募集している。
「北三陸の魅力を理解して、外の世界に発信する方法を一緒に考え、実行できる人に来てほしいですね。ブランド作りから商品開発、マーケティング戦略まで、一緒に取り組んでくれる方。「自分は営業だけできます!」、「マーケティングはできます!」ではなく、何にでも挑戦できるマインドのある方が大歓迎です。取引先に海外、特に中国が入ってきますので、できれば北京語ができた方が理想的ですが、それよりもマインド重視です。」
今後、現在の「ひろの屋」の他に「北三陸ファクトリー」という合同会社を立ち上げる。会社の立ち上げの段階からすべて見ることが出来るのも魅力だ。生産現場と向き合うところから、会社の作り方、ブランドの生み出し方・広げ方、さらには産学官連携の現場まで立ち合えて、海外にも行ける。都市と地方、日本と海外、生産者と行政と企業と大学、様々なステークホルダーと関われる。そうした中で、北三陸の切り込み隊長として一緒に道を切り開いていく仲間を待っている。世界があたりまえのように「KITA-SANRIKU」のブランドを口にするまで、下苧坪さんの挑戦は続く。
聞き手・書き手:落合絵美(ライター)
記事提供:みちのく仕事(NPO法人ETIC.)
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