サンコー食品株式会社
サンコー食品は、大船渡湾につながる港のすぐ近くで主にイカの加工品を製造、販売している水産加工会社です。ここで加工されたイカは、コンビニやスーパーなどの惣菜、レストランや中華料理店、給食産業、デリバリー会社などさまざまなところで使われています。まさに、現代の食生活を支える影の立役者。水産加工の町から全国へと羽ばたいた食品製造会社です。
イカの加工に絞り込み、 全国へと羽ばたいた
「昭和56年、当時イカを加工する会社に勤めていた僕の父親が独立して始めました」と話すのは社長の小濱健さん。「父がイカを選んだのは、東北地方でとれる『地のもの』であることと、食べ方が多いので需要も無限じゃないかと思ったからだそうです。一年を通して安定して注文のある食材なのも決め手だったと聞いています」。
今でも売り上げの8割がイカで、あとの2割が鮭。大船渡で揚がる鮮魚の流通という、地元にこだわる商売を続けています。「イカリング、格子に切れ目の入ったイカの切り身、細切り、ロールイカなどは食べたことがあるでしょう?うちは生のイカをこういったさまざまな形に加工して卸している会社です」とわかりやすく説明してくれました。
「中華丼のあん、パスタやピザのトッピング、焼きそばの具材、すり身の生地をはじめ、いろいろな料理に使われている」と聞くとグッと身近に感じます。直接納品していないところも含めると、小濱さん自身もそのすべては把握できないほどなのだそう。
地元の雇用と素材を守り、国内企業ならではの対応を心がける
今の場所に加工工場を建てたのは平成元年。「忙しくて従業員に申し訳ないほど」事業は順調に伸びました。でも「でかいことをしようと思ったことは一度もない」と言う小濱さん。その真意を尋ねると、「外国人労働者を雇用して価格を下げたり、扱う水産物の種類を広げるという選択肢もありますが、僕は地元の人の雇用と『イカ』という食材の2点に安定を感じた」と言います。その分、国内の企業だからこそと言ってもらえる安全性や利便性を追求し、信頼してもらうことを自社の主軸にしました。
「企業によっては価格が安い中国やベトナムに材料を発注するところもあります。でも海外は日本とは感覚が違う。納品に時間がかかり、納品数もアバウトなようです。近年は、コンビニや外食産業でもメニューの切り替えが早く、いろいろなニーズが飛び交っている。そんな中で、うちは1週間程度で注文数ぴったりを納品することができる」と国内企業のメリットを強調します。
「こまかい要望にも対応するのが基本。それには社員が一丸になって想像以上の努力をしなければならないこともあります。要望に応えられるかどうか、僕らの真価が問われるところですね」。
安全性、衛生管理の行き届いた近代的な製造現場
「国内企業ならではの安全性と品質を維持するために、設備には投資しています」と工場を案内してくれました。時計などの金属をはずすことはもちろん、消毒液で手を洗い、白衣に帽子、マスク、手袋を身につけ、何重ものチェックを受けなければ工場内に入ることはできません。
工場にある金属探知機、計量システム、急速凍結できる大きな冷凍室など、必要な設備はみな先端のもの。「大手の企業と取り引きするには品質チェックや衛生基準が重要」と小濱さん。その実績が信用につながり、取引先が広がる……、それを積み重ねていくことがサンコー食品の目標だといいます。
一歩抜きんでるためには、積極的に提案をしていく
将来の夢について尋ねてみると、「サンコー食品がいいと思ってもらう努力が大切。新しいことを始めるより、目の前の仕事を大切にし、取りこぼしをしない、クレームに真摯に対応するということを積み重ねていけば結果がついてくる。大きなことを打ち上げるつもりはない」と地に足を付けることを強調します。
そんな小濱さんは1カ月に1〜2回、必ず東京や大阪に行ってお客様の声を聞いたり、いろいろな店の商品を見てくるそう。「次の加工技術のヒントを得ることは必須なんです」。
「要望に応えるだけじゃダメ。『こんな形もできますよ』という提案こそ大事です。新しい形のイカを知ったら新商品が生まれることもある。『おもしろい提案をしてくれるからサンコー食品と付き合いたい』と言ってもらうチャンスです」と戦略的な話も聞かせてくれました。
順調だったからこそ受けた震災の大きなダメージ
躍進を続けていたサンコー食品も東日本大震災に直撃された会社の一つです。
「高さ8メートルの建物の7メートルまで津波が来ました。機械が全壊したのはもちろん、原料も商品もすべて浸水して」とそのときを思い出して顔をくもらせる小濱さん。大船渡湾に面した立地ゆえのことでした。
順調に稼働していたからこそ原料や商品のストックも多かったそうですが、「津波が来なかった工場でも、電気がこなくて冷蔵庫は止まったし、被害を受けたのはみんな一緒。仕方がないですよ」と淡々と言います。立ち向かうしかない、と決意した思いがにじみ出る言葉です。
当時社長だった小濱さんのお父様が資金繰りから設備の手配まで奔走し、小濱さんは販売方面で動いて二人三脚でがんばったそう。「父は自分の創った会社を何とかしたかったでしょう。僕より数倍辛かったと思います」と、今は亡きお父様に思いをはせます。
災害を経て知ることができた人のつながり
波が引いて遠くから見た工場は、想像を遙かに超える状況でした。
「1年はダメかなと思ったんですが、従業員が集まってくれ、ガレキの撤去、腐敗した原料の片付けなどを率先してやってくれたんです。もしかしたらまたみんなでやれるかな、と希望の光が見えたとき、感謝の気持ちでいっぱいでした」。
震災の年の8月5日には工場を再開、一昨年には震災前の売上をクリアしたというからその努力は並大抵のものではなかったでしょう。「働いてくれている人、原料を納品してくれる人、商品を運んでくれる人、販売してくれる人、みんなのおかげなんです」という小濱さんの言葉は心の底からわき出ています。
地元にこだわり、一致団結して支え合う
「先代も僕も、ここで会社をやるということは地域に還元していくことだと考えていました。従業員は働けてよかった、僕らは働いてもらえてよかった思い合うことが、大変なときも一丸になって乗り切れる原動力」と照れながら言いますが、それがまちがっていなかったことを震災が教えてくれたようです。
「大船渡のためになんておおげさに言う気はない。まず、うちの会社がハッピーでありたい」という言葉も、足元をしっかり見つめていることの証し。健全な経営があるからこそ、地域に貢献できるのですから。
小濱さんは、今年、従業員のみなさんと東京に旅行に行ったそう。「ようやく一段落したので。スカイツリーに行って、築地ですしを食ったり『純東京ツアー』みたいなことをしてきました」と写真を見せてくれました。胸がポッとあたたかくなるよう記念写真。サンコー食品の宝ですね。工場を見せていただいたときにも、小濱さんの「みんなー、集合写真撮るよ」の一声でさっと集まってくれた従業員のみなさんの動きには、小濱さんを支えたい気持ちがあふれていました。
サンコー食品の社名は三陸の港という意味だと、お父様が亡くなる直前に聞いたそう。親子二代で地元を大切にして、事業を伸ばしてきたサンコー食品の原点が見えた気がします。繰り返し口にしていた「地味なんだけど」という言葉を忘れずに、「日々挑戦だ」ともいう小濱さん。これからもおいしいイカの加工品を全国に届け、私たちの食をさらに豊かにしてくれるはずです。
サンコー食品株式会社
〒022-0002
岩手県大船渡市大船渡町字下船渡104
電話0192-25-1188
記事提供:NTTdocomo「笑顔の架け橋Rainbowプロジェクト」
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