震災から4年半以上が経過し、東北を訪れるボランティアは減少し続けている。
各市町村社会福祉協議会に設置された災害ボランティアセンターが1か月に受け入れた東北3県でのボランティア人数は、ピークだった2011年5月の182,400人から、2015年7月には5,000人にまで減少した。
そんな中、今も全国から若者が集まり続ける場が、宮城県気仙沼市にある。
「気仙沼ゲストハウス“架け橋”」を運営する田中惇敏(あつとし)さんが初めて気仙沼を訪れたのは2012年3月。約1ヶ月間のボランティア活動を経て、同年5月に所属する九州大学にてボランティア派遣団体「Q.E.D.Project架け橋」を設立。活動を行う中で、ボランティアで訪れる人が滞在する場所の必要性を感じ、2014年4月から大学を休学して気仙沼に移り住んだ。地元のNPOで働きながら、2014年5月からゲストハウスを運営している。
気仙沼で活動を開始した当初は、地元の人と厳しくぶつかったこともあるという。元々バドミントンの選手で「本気のやり方は知っていた」という田中さんは、困難な状況に直面するたびに自分の本気を言葉と行動で示すことで、徐々に信頼関係を構築してきた。
こうした関係性をもとに、“架け橋”では単に泊まる場所を提供するだけでなく、周辺地域でのボランティア活動や語り部の話を聞く機会をコーディネート。外部から訪れる若者たちと地元住民との接点を生み出すにあたっては「気仙沼を訪れる人と被災した地元住民、どちらの思いに重きを置くかといえば49:51で被災した方の気持ちを尊重したい」と、常に住民の心情に配慮しながら、外から来る若者と気仙沼との、文字通り「架け橋」的役割を果たしている。
“架け橋”ではこれまでに1000人以上のボランティアを受け入れた。取材日も、初めて東北に来たという大阪の女子大学生、2015年春に“架け橋”に宿泊し2度目の訪問という男性、常連となった学生グループらが、翌朝からの活動に備えていた。
「ボランティア」というと、震災直後のガレキ撤去やヘドロの掻き出しを思い浮かべ、「5年も経って、まだ必要があるのか?」と思う人も多いだろう。だが、植樹活動やイベント運営の手伝いなど、被災地のまちづくりが進む今だからこそ必要とされるボランティアは確実に存在している。そして、今こそ気仙沼を訪れる意義について、田中さんは「4年以上が経った今、外から来る人に向き合う余裕が被災者に生まれている」という。震災直後に比べ地元住民との接点が生まれやすくなり、交流を求めて外部から訪れる若者にとっては魅力が増した。
田中さん自身、気仙沼との関わり方が大きく変わったのは2014年のことだった。家庭教師先の家のおばあちゃんの人間的な温かさに触れ、気仙沼に永住することを決意。時には夕食をともにし、辛いことがあれば話を聞いてもらえる相手に巡り合い、今では「死ぬのも気仙沼」と言い切る。
気仙沼には田中さんの他にも、他地域から移住した20代の若者が20人以上いる。大学卒業後、唐桑町で学生ボランティアの受け入れを行ったのち、まちづくり団体「からくわ丸」を立ち上げた加藤拓馬(26)さん、震災の風化を防ぐために毎月11日にキャンドルを灯す「ともしびプロジェクト」の杉浦恵一(29)さんらが、地元の若者や住民たちとの人的ネットワークを築き、地域に根差して活動している。
加藤さんは新たに一般社団法人を立ち上げる傍ら復興支援員として市役所に勤務、田中さん自身もゲストハウスを運営しながら東北各地にコミュニティ拠点「みんなの家」を建設する建築家によるNPO法人「HOME-FOR-ALL」や気仙沼で植樹活動を行うNPO法人「海べの森をつくろう会」で働くなど、まちづくりに関わりながら柔軟な働き方を実践している。
田中さんは、若者が地域との関わる形は大きく2つあるという。彼らのように地元の人と信頼関係を築きながら地域課題解決に取り組める自律的なプレイヤーと、別の場所に生活の拠点を持ちながら気仙沼を訪れるボランティアだ。そのどちらの関わり方もあっていい、さらに「ボランティアの動機は気にしない。就職活動のために来るのでもいい。むしろ、自分がやりたいこと、大学で学んでいることや就職先の専門分野を生かして活動してほしい」ともいう。
この間口の広さと温かさが、ゲストハウスに若者を呼び寄せ続けているのだろう。そして、地元の人の温かさに触れた経験やボランティア仲間との交流から、気仙沼に愛着を持ちリピーターになる若者が生まれている。
田中さんは “架け橋”が復興支援ボランティアの宿という役割を終えても、継続運営していく予定だ。町の魅力を感じ折に触れて立ち寄ってもらい、気仙沼が第二のふるさとになっていく拠点になればと話す。
「震災復興支援の宿」から「人の温かさに触れに帰る場所」へ。少しずつ軸足を移しながら、今日も“架け橋”は若者たちを迎え入れている。