【川崎フロンターレ×陸前高田】win-winの関係から生まれる「人間ならではの楽しみ」

2015年9月11日、川崎フロンターレ(以下、「フロンターレ」)と陸前高田市の間で友好協定「高田フロンターレスマイルシップ」が締結された。協定には、陸前高田市の広報活動にフロンターレのロゴや選手の写真を無償で使用できること、陸前高田市民有志による応援団体「陸前高田フロンターレサポーターず」の設立などが盛り込まれている。
Jリーグ1部に所属し神奈川県川崎市をホームタウンとするサッカークラブと岩手県の自治体による異例の協定は、どのように成立したのだろうか。

教材の提供をきっかけとした草の根の交流

毎年のサッカー教室で会う子どもたちの成長を選手も楽しみにしている ©川崎フロンターレ

毎年のサッカー教室で会う子どもたちの成長を選手も楽しみにしている ©川崎フロンターレ

フロンターレと陸前高田を最初に結び付けたのは、算数ドリルだった。震災直後、陸前高田市立広田小学校の教諭だった濱口智さんが、川崎市で教師をしている友人に「教材がない」と相談したことから、フロンターレが川崎市内の小学生に配布している算数ドリルを届けることになった。2011年4月、フロンターレのスタッフが小学校を訪問しドリルを渡したが、子どもたちはフロンターレのことも川崎市のことも知らない。「どこかもわからないところのドリルを使ってもらうのは忍びない。選手を連れてこよう」と、9月には元日本代表の中村憲剛らフロンターレ全選手によるサッカー教室が実現した。

その後、1年に一度のサッカー教室と、陸前高田市民を川崎市に招き観光とサッカー観戦を楽しんでもらう「かわさき修学旅行」を継続的に実施。これらの活動にはフロンターレを応援しているサポーターも巻き込み、市民同士の草の根の関係も深まった。濱口さんは、「担任をする4年生に、震災後に支援してもらった全国のみなさんに手紙を書く授業を行ったところ、普段は作文が苦手な子が、フロンターレのサポーターにものすごく長い手紙を書いていました。家族を失った人も多く、精神的な支えが欲しいと感じていた中で、フロンターレを通じて多くの人に支えられていると実感できたことが一番うれしかった」という。
フロンターレのプロモーション部部長として活動を主導してきた天野春果さんは、こうした取り組みを「地域の住民と目線を合わせてコミュニケーションするという、フロンターレが川崎で行っていることそのもの」だという。フロンターレは、ファンや地域住民との関係を、単なる顧客ではなく一緒に盛り上げる仲間ととらえ、活動に巻き込んでいる。同様に陸前高田の住民とも、堅苦しい「支援」ではなく、顔を合わせて名前を呼び合える関係を目指して交流してきた。

支援を越えて支え合う関係へ

2014年夏頃から、天野さんは「このままのスタイルの復興支援には限界がある」と考えるようになった。支援をする/受けるという非対称の関係から、お互いが支え、励まし合って笑顔になれるような関係へと変えたい。3年間の活動で関係性のできた陸前高田の市民に相談すると、賛成という返事だった。そのうちの一人、フォトグラファーの松本直美さんは「それであれば、行政を巻き込んだ方がいい」と提案した。
それを受けて天野さんは2014年12月、市長に、陸前高田で合同イベントの開催を提案。市から「合同でイベントを行うのであれば協定を結びたい」と申し出があり、「高田フロンターレスマイルシップ」へと話が進んだ。

天野さんは、プロサッカークラブが復興に関わる最大の意義を「クラブの発信力を生かして被災地の現状を知ってもらうこと」と表現する。一方、フロンターレが得られるものは何か。その一つが、物産だ。陸前高田の海の幸や日本酒を試合会場で提供すれば、来場したファンが喜び、ひいては来場者増につなげられる。
それを具現化したのが、2015年11月22日に開催されたイベント「陸前高田ランド」だ。試合が行われる等々力陸上競技場に隣接する公園に、陸前高田の事業者13社が出店し、観戦に訪れたファンに特産品を販売した。

2015年のJリーグ最終戦当日に開催された「陸前高田ランド」。多くのサポーターが陸前高田の物産に舌鼓を打った ©川崎フロンターレ

2015年のJリーグ最終戦当日に開催された「陸前高田ランド」。多くのサポーターが陸前高田の物産に舌鼓を打った ©川崎フロンターレ

開催にあたり、陸前高田市観光物産協会に勤務した経験を持つ松本さんが地元の事業者への声かけを買って出た。その上で、フロンターレのスタッフが陸前高田を訪れて1軒1軒訪問して説明、さらに懇親会を開催して事業者同士の親交も深めた。
実は、陸前高田の事業者が共同でイベントに出店する機会は多くない。首都圏などからも引き合いはあるが、交通費負担や収益性を考えると二の足を踏んでしまうことが多いという。それでもフロンターレの試合に出店したのは、多くの来場者が見込めること、そして何より、4年間にわたって支援を続け、さらに対面でのコミュニケーションをとったことで「フロンターレなら行きたい」となったから。交流を通じて、陸前高田市民の中にも「これからもフロンターレと一緒にやっていくためには、私たちも何か返さないといけない」という意識が生まれていたのだ。
この試合の入場者数は22,511人。カキ800食、ホタテ400食と日本酒が1時間半で完売したのをはじめ、多くの商品が完売し「陸前高田ランド」は大盛況に終わった。事業者たちは、すでに来年の出店を楽しみにしているという。

スポーツがもたらすつながりと喜怒哀楽

フロンターレと陸前高田の交流のきっかけとなった濱口さんは「フロンターレつながりで陸前高田市内に知り合いが増えた」という。震災前から続けてきた学童保育の活動も、サッカー教室を通じて知り合った人と一緒にできるようになった。
天野さんは、陸前高田におけるフロンターレやスポーツの価値を「生活のハリ」と表現する。被災地域は、これまで生きてきた街がなくなり、遊び場がなくなり、ダンプカーの粉塵が舞っている。生きる事はできても、人間としての楽しみが見出しにくくなってしまった。サッカーはシーズン中、1週間に1度試合がある。フロンターレを知り、毎回の試合の結果を気にするようになった住民は、生活のハリを得られるようになったという。
「ライフラインの確保の次に必要なのは『ヒューマンライン』だと思うんです。食文化や音楽のように、なくても生きられるけどあると幸せになる、人間にしか与えられていない楽しみ。その中でもスポーツは最大の力を持っていると思います。定期的に試合があり、結果に一喜一憂する喜怒哀楽があり、それを人と共有できる」。スポーツを通じて、楽しみのある豊かな生活を提供すること。それは、川崎をホームタウンとしてフロンターレが行ってきた活動のビジョンそのものだ。

Jリーグ、日本サッカー協会などからの支援により2011年に完成した天然芝の上長部グラウンド ©川崎フロンターレ

Jリーグ、日本サッカー協会などからの支援により2011年に完成した天然芝の上長部グラウンド ©川崎フロンターレ

震災から5年、フロンターレの設立から20年の節目に当たる2016年の7月3日、陸前高田市気仙町の上長部グラウンドで合同イベント「高田スマイルフェス2016」が開催される。
イベントの目玉は、プロの選手同士が対戦する試合「スマイルドリームマッチ」。天野さんがサッカー教室ではなくの試合の開催にこだわったのは、選手がユニフォームを着て真剣勝負をする、真の姿を知ってもらいたいから。天然芝のグラウンドでプロ選手がサッカーの試合を行うという陸前高田初の挑戦に向けて、資金集めやグラウンド整備などの準備を双方で進めている。支援を越えた新しい関係で共に作るイベントが実現するとき、そこにはどんな喜怒哀楽が待っているのだろうか。

文/畔柳理恵