東日本大震災と向き合い3月11日を「はじまり」に変えた30人の夢を掲載した書籍『3.11からの夢』とのコラボ記事です。
イカダがつないだ、漁師の絆
私は宮城県気仙沼市の唐桑町というところで、牡蠣、ホタテなどの養殖業を営む漁師です。うちは古くから養殖を生業としている家系で、私でちょうど5代目を数えます。
震災の年、私はまだ実家を継いではおらず、違反船や領海侵犯などの取り締まりをする仕事で全国をかけずりまわっておりました。導かれたのかなと今では思っていますが、不思議なことに私は3月11日に気仙沼に入港し、さあ休むべと思っていたところに、あの地震でした。
ご存知の通り、気仙沼は津波と火事で酷い有様でした。「地震が来たら、津波が来ると思え。津波が来たら、船を沖に出せ」。この辺の人はその言い伝えを忠実に守り、自分の命をかえりみず、山のような津波を乗り越え避難させていました。私も、できることならそうしたかったのですが、うちの主力船である「第八海宝丸」は、修理のため市内の造船所に預けていて、避難しようにもできない状況でした。
震災から2日後、つぶれた船を見ねぇとけじめがつかねぇと思い、造船所まで向かいました。陸路を立たれていたので、小舟を借りてガレキをかき分け、なんとか到着した時、自分の目を疑いました。なんと、船は無傷で、台車の上さ乗っていたのです。あの惨状の中…、まさに奇跡としかいいようのない状況でした。その光景を見て、「養殖をやれ」と言われたような気がしました。よし、家を継ぐべ。そんな感情がわき立った瞬間でした。
とはいえ、養殖のイカダは全滅で、0からというよりマイナスからのスタートでした。いつまで続くのか検討もつかねぇ果てしない復旧作業に、町の漁師たちはどんどん気が滅入っていきました。漁師は海に出ねぇと、魂が死んでしまうのです。
転機が訪れたのは、震災から半年後の8月でした。広島の牡蠣の養殖業者の方々が、約200台のイカダとともにやってきてくれたのです。宮城と広島といえば本来はライバル関係にあります。まったく先の見えねぇ中でのこのような支援に、胸が熱くなりました。感謝はもちろんのこと、まさに「絆」をダイレクトに感じました。また、自分とたいして年の変わんねぇような広島の若い青年たちが、懸命かつ素早くイカダを組み立てているのを見て、これまで「なんとなく継いで、なんとなく養殖をやろう」と考えていた自分が情けなくなりました。「こっちも負けてらんねぇ」と、喝を入れられたような気持ちになりました。
現在は、数多くのご支援のおかげで、養殖業はなんとか8割程まで復活することができました。そして、この震災をきっかけに、日本全国からたくさんの方々が宮城、そして唐桑に訪れてくれるようになりました。今、私にできることは、その方々に唐桑の海の豊かさや、素晴らしさ、そして広島の方々との物語を伝えていくことだと考えています。
夢はやはり、これから一生かけてやっていく養殖業にあります。唐桑という豊穣な海の恵みである海産物を全国に知っていただきたいです。「夢はでっかく!」がモットーなので、漁師という立場からもっと町を盛り上げていき、唐桑に来たいという方々を1人でも多く増やしたいです。これからも、手間や努力をおしまずに励んでいきたいと思います。また、漁師が目に見えて減ってきているのも気になります。20年先には、ほとんどいなくなると言われている現状も、なんとかしたい。漁師をもっと増やしたい。これもまた、私の夢です。
3.11を振り返ってみると、やはり失ったものや、悲しい出来事は拭いきれません。でも、以前からは想像もつかないような考えを持てている自分に驚きました。永い冬眠から目覚めたような気持ちです。
みなさん。ぜひ一度、気仙沼、唐桑に遊びさきてください!
そして、うんめぇ牡蠣食いさきてけらいん!
>3.11からの夢のコラボ記事一覧はこちら
記事提供:3.11からの夢(いろは出版)