2016年4月23日(土)に、いわき市で2016年初の「未来会議」 が開かれた。東日本大震災と原発災害による放射線問題の影響が濃いいわき市には、被災状況や補償問題が異なる様々な背景を持った人たちが住んでいる。そのような状況の中、未来会議は「対話」を通して誰もが安心して参加できる場を提供しようと定期的に開催されている。
今回は「あれから5年 いまをアーカイブする」をテーマに、4人一組となって、これまでの5年間を話し合うワークショップからスタートした。ストーリーテリングというファシリテーションの手法の一つを使い、まず話し手が自身のストーリーを7分話す。その後10分間は聞き手が、話し手の話の中から自分が受け取った言葉を話し手にフィードバックする。聞き手も話し手も、話しているときはどちらも主役になる。不思議なことに4番目の話し手が話す頃には、より内面的な内容が語られ、テーブルに座った4人が、まるで旧知の間柄のような雰囲気がつくられていった。
価値観の多様性や、一人ひとりの考え方が異なることを前提に対話を行う。地域や溝を超えて人と人とが共に考える場所として、いわき市で未来会議が始まってから、まる3年がたった。その間、開催した会議は10回。未来会議の場で出会った人と人とが意気投合して生まれた、たくさんのアクションが育っている。実りのある「対話の場」は、どうやってつくることができるのだろうか。
おしゃべりの場から、未来を見つける
未来会議は、東日本大震災復興支援財団が被災者の生活する各地で開催していたワークショップが、2012年10月にいわき市で開催されたことがきっかけで始まった。ファシリテーター田坂逸郎さんの進行のもと「違う意見も否定しない」「何でも話す」の2つを約束事とし、おしゃべりの場を通して未来を見つけていこうというものだ。当時のいわき市は津波の被害にあった人、原発災害により避難を余儀なくされた人、放射能による健康被害を心配して生活している人、風評被害を払拭したい人など、様々な状況を抱えた人たちが一緒に暮らす中で、お互いの価値観の違いから言いたいことが言えない状況が続いていた。
「田坂さんと一緒に対話の場づくりを、いわきでもっとやりたいね」。ワークショップを体験した、いわき市に住む数名の有志が未来会議開催に向けて動き始めた。有志メンバーは事務局を設立。東日本大震災復興支援財団の支援を受け、2013年1月26日にキックオフ第1回目を開催した。
被災者支援関係者、双葉郡から避難された方、放射能の不安の中で子育てしている人たち、教育関係、行政関係、農業関係者など75名が「福島県の30年の未来に、私たちが関わりたいこと」をテーマに、同じテーブルに座った人たちと対話を交わし、15分ほどしたらまた別のテーブルに移って違う人たちと対話する予定だったのだが…。最初から対話が白熱。ファシリテーターが席替えを促しても、誰も席を立とうとしないというハプニングが起きた。「ようやく同じことを考えている人たちに会えた」「ようやく俺の話を聞いてくれた」など、未来会議事務局の霜村さんは「集まった人たちは、今まで話し足りてなかったことが、山ほどあったんですね」と、当時を思い起こしながら語る。
生まれた数々のアクション
この会議がきっかけになり、報道されない旧警戒区域を町民の有志が案内する「警戒区域にいってみっぺ!」という取り組みや、子どもたちが今の状況をどう思っているか、将来どんな大人になりたいのかを聞くために行った「子ども未来会議」などのような取り組みが生まれた。
2014年からは財団の支援を離れて事務局が企画を考え、会議に呼ぶゲストを人選した上で、ファシリテーター田坂さんと進行を打ち合わせするようになる。初回は放射能をめぐり考え方が違うお母さん、農家、強制避難を余儀なくされた方たちを招いた。約束事として、放射能をめぐるどんな考えも否定することなく、お互いが大切にしているものを尊重しながらゲストの話をまずじっくり聞いてもらい、集まった人たちが感想を述べ合う場にしたところ、一人一人の話が重く、深く場に伝わったという。
「どんな意見も尊重する」。自分と異なった意見には「ああ、そういう考えもあるよね」と受け止める。各々の違いを感じることで、自らも新しい意味を再発見し、変化できる場を実現する。そしてその時に語られた、それぞれの真実の言葉をアーカイブし、遺し続けてきた未来会議。「意見や主義などが偏らない、フラットで真っ白な場にすることを心がけている」と言う霜村さんは「この場を30年以上継続することを目標にしています」と語った。
文/武田よしえ
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