2011年4月22日に全村避難が決定してから5年3ヶ月が過ぎた飯舘村は、2017年3月31日に避難指示解除準備区域及び居住制限区域の避難指示が解除される。2016年7月1日現在、避難住民6,180人のうち94%の村民が福島県内に住み、さらに63%が福島市に避難中だ。
このような状況の中、復興庁の調査によると、2015年12月時点で「村に戻らない」と決めている世帯は全体の3割で、「まだわからない」と答えた世帯を含めると約半数になる。家族構成別にみた結果では、18歳未満の家族がいる世帯の半数が「戻らない」と答えている。除染が終了していないことや村の医療関係施設への不安に加え、避難先の生活の方が便利だからということを、その理由に挙げている。
「いいたてまでいの会」は、民間組織として2011年7月に誕生した。離村を余儀なくされた村民の心の絆を守り、村の復興に協力することを目的に活動している。「までい」とは福島県の方言で「心を込めて」「ていねいに」という意味で、スローライフな村の生活ぶりを象徴する言葉だ。
会では主に2つのプロジェクトを進めている。1つは2013年から取り組んでいる「田植え踊り」の伝承事業だ。
高冷地にある飯舘村は、昔から数年に一度の割合で冷害に襲われてきた。田植え踊りは厳しい自然環境の中で生きる村の人たちが、子孫繁栄と五穀豊穣を願って毎年旧暦の小正月の頃に演じる村の伝承行事で、震災前は村にある20の行政区ごとに形の違う踊りがあったという。
会は、福島市飯野町に仮設校舎を構える飯舘中学校で、「ふるさと学習」という総合学習の時間に1年生を対象にこの田植え踊りの授業を行っている。学んだ成果は学校の文化祭で発表したり、村民が入居している仮設住宅のイベントで披露したりしている。
初めて仮設住宅で披露した時は、今までどんなイベントにも顔を出さなかった高齢者が車椅子で外に出て、手拍子をしながら踊りを見物したそうだ。この高齢者は、かつて田植え踊りの踊り手の1人だったという。中学生たちは村の依頼により敬老会で披露したこともある。化粧をした踊り手である生徒の嬉しそうな表情は記録ビデオに残っており、学んだ踊りは上級生から下級生に伝えている。生徒たちは教わるだけではなく、伝えることも学ぶのだ。その結果、卒業式の送辞や答辞では、生徒の口から「田植え踊りの伝承を守ろう」という言葉がでるそうだ。
もう1つの取り組みは、村の生活と文化を、村民の「言葉」と「もの」で語る「いいたてミュージアム」プロジェクトだ。
村民の自宅を訪問し、自身にとっての「古いもの」「大事なもの」「歴史的なもの」を見せてもらい、村の記憶にまつわるものを収集、展示する。2013年夏にスタートした展覧会は福島市内で2回開催されたほか、東京、神戸、京都、静岡を巡回してきた。巡回展には村民も講師として同行し、村の話をする。
村民が提供した「もの」は、村の豊かな自然と静かな生活ぶりをものがたり、共感した他地域の住民から、村の支援者を掘り起こす大きな力になっている。同時に、こうした会の活動によって、今後の生活に前向きになる村人が生まれたり、会の活動に加わる人が出てきたりしている。
発足当初は「将来の帰村を目指すための活動を推進すること」を目的としていた会だったが、村民の帰還意識がまだ低い状況に配慮して、今年度から趣旨を「飯舘村の再興、発展のために活動する」という表現に変えた。
そうした中、総会の日である7月15日に県庁南再エネビルで菅野典雄村長の講演が行われた。村長は「震災のおかげで『までい』な村の存在が世界的に有名になったものの、実際は腹わたが煮えくりかえる思いだ」と、避難を強いられてきた状況に悔しさをにじませた。なぜならば、放射能災害によってもたらされた村の復興は、避難解除後も「0からのスタートではなく、0に向かっているスタート」だからだ。
しかし、津波によって尊い命を奪われた人たちの苦しみを思えば、まだまだがんばれる余地があるのではないか。生きていれば元に戻す方法は考えられるが、死んだ人は、それすらもできないのだからと訴えた。
会の活動は決して派手ではない。しかし、伝承行事の継承を通して若者と高齢者の世代を超えた交流を作る取り組みや、村の文化や生活を「もの」を介して語らせるいいたてミュージアムプロジェクトは、避難によってバラバラに散らばった村民のコミュニケーションをつなげる役割を果たしてきた。住民の高齢化に伴う地方の過疎化や3世代同居が珍しくなった現象は、飯舘村だけの事例ではない。村民の気持ちに寄り添いながら、人と人とのつながりを作り、村の伝承を伝えるサポートをしてきた「いいたてまでいの会」。この活動は多くの地域で活用できるのではないだろうか。
文/武田よしえ
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