NPO法人アスヘノキボウ 代表理事 小松洋介
1982年生まれ、仙台市出身。大学卒業後、株式会社リクルートに入社。震災後、宮城県内でボランティア活動に従事した後、半年後の2011年9月に退職し、女川町を拠点に本格的に復興支援活動を開始。2013年、NPO法人アスヘノキボウを立ち上げ、行政や企業などと連携しながら、町内の起業支援や移住者誘致をはじめとする人材育成、産業振興など数々の事業を展開。2015年春には、JR女川駅開業とともに駅前にコワーキングスペースなどの機能をもつ交流施設「女川フューチャーセンターCamass(カマス)」を開設。2014年、雑誌AERAの「日本を突破する100人」に選出。翌年、日本青年会議所の「人間力大賞 経済産業大臣賞」を受賞。2017年、復興庁「復興・創生顕彰」を受賞、日本財団主催の社会課題解決に挑む革新的なリーダー「ソーシャルイノベーター」に選出。
ー”あれから”変わったこと・変わらなかったことー
「好き」が集まるサードプレイスに
震災を境に生じた大きな変化は、一人ひとりの多様な「幸福論」が東北を中心に生まれたことではないだろうか。「何のために、どう生きるのか」を自問し、「自分の気持ちに素直に、自らの意思で未来を選択する」と自答して行動する人が次々と誕生した。それは、世の中で一般的に「よい」と言われてきた人生の選択肢が、大きく変わったことでもある。
一言で言えば、「ソーシャル」や「地方」への関心が高まった。これまでは「優秀な大学を卒業して、大手企業に就職する」ことが人生における「成功」とされる風潮が根強くあり、また東京などの都市部にあらゆる情報も集中していた。しかし、今は違う。一人ひとりが社会のために生きること・働くことの意義を問いただし、自由に未来を選択する風土が生まれた。同時に、地方を新しいビジネスが生まれる場所、自分の好きな人やモノが集まるサードプレイスと位置づけ、そこに魅力を見出すようにもなっている。
女川で生活し、仕事をしている今の僕も、震災後に生まれたそうした新しい価値観によって形作られた。大手人材会社のリクルートを震災から半年後に退職した後、女川町で復興支援を開始し、今では女川のまちづくりにすべてを注ぎ込んでいる。6年前、こんな未来は誰も想像できなかっただろう。
女川には、絶望から這い上がり、強い意思で生きようとする人たちがいた。家族や大事なモノをすべて失ってもなくならない高い志、情熱。その信じられないような力強い姿勢に心を打たれ、僕自身も彼/彼女らのように強い意思をもつ人間でありたい、そして、そんな女川の人たちと一緒に仕事ができたら幸せだろう。それが、僕が東京の大企業ではなく、女川で生きると決めた理由だ。
「もう小松くんは黒子じゃない。一緒にまちをつくる仲間だ」
僕のような見ず知らずの「よそ者」を、女川町が歓迎してくれたことも嬉しかった。リクルートを辞めた後、どんな支援が必要なのか聞き取り調査を続け、支援事業の企画書を持って県内各地を駆け回った。そんな僕に興味をもって、声をかけてくれたのが女川町だった。その後、町の商工会や産業界が一体となって、震災後の復興計画を民間の立場から議論する「女川町復興連絡協議会」に唯一の町外者として迎え入れてもらい、行政と町議会に提出した復興提言書の作成に携わらせてもらった。また、移動式トレーラーハウスの宿泊施設「ホテル・エルファロ」を企画したりと、とにかく「困っている人を助けたい」という一心で、無我夢中で走り抜けてきた。
その思いや覚悟が、本当の意味で町民のみなさんに認められ「ここで生きる」と決心したのは2012年12月、エルファロが完成したときだった。エルファロは、ボランティアや復旧工事の作業員らが宿泊できる場所を確保するための宿泊施設として、僕自身も企画段階から関わらせてもらった女川で最初の大きな仕事だった。そのオープニングセレモニーの日に、町民から不意にかけられた言葉に胸を打たれたのだ。
セレモニー当日、駐車場の誘導をしていた僕に、復興連絡協議会の会長から「小松くんはずっとここにいるよな、そうじゃなきゃダメだぞ」と声をかけられ、産業界の若いリーダーからも「もう小松くんは黒子じゃない、主役だ。この町で一緒にまちをつくっていく仲間だ」と励まされた。僕はそれまで「自分はあくまで外部の人間。主役である町民のみなさんをサポートするのが役割だ」と考え、名刺には「地方活性化の黒子」と書いていた。ただその瞬間、そのキャッチコピーは「女川劇団の一員」に変わったように思う。今でもその光景と言葉は、強烈に脳裏に焼き付いている(オープンニングセレモニーの様子はこちら)
今、あのときと同じような働き方をしたら、きっとぶっ倒れてしまうだろう(笑)。でも同時に、自分の心に素直に従い、目の前にいる大切な人たちを助けたい思いで一心不乱に仕事を続けてきた結果、それを認め、応援してくれる人と出会うことができた。町の人たちから期待されるのはとても嬉しく、同時に強い責任感も芽生え、それがさらに仕事へのモチベーションにつながっていく。こういう働き方こそ、僕にとっての「幸せ」と感じたのだ。
東北には、こういう風に自らの「幸福論」を貫き、行動する「個人」が次々と生まれた。そして、それが周囲の人の心を動かし、巻き込み、さらにそれを見て多くの人が集まるという循環が生まれている。つまり、東北は今、自らの「生き方」を問い、「志」を実現する多様な人材の宝庫に生まれ変わっているのではないか。
世代やセクターを超えた女川独自のまちづくり
自らの意思で立ち上がり、行動する個人が数多く入り込んだことで、女川のまちは震災前から大きく姿を変えた。行政と議会と民間、さらに僕ようなよそ者が連携してまちづくりを進める「公民連携の先例モデル」、そして「復興のトップランナー」などと周囲から高く評価されるほどだ。
2013年に立ち上げたアスヘノキボウとしても、行政や東京の企業などと連携して様々な事業を展開してきた。女川で起業する人たちの支援や移住者の誘致事業、また2015年春にはJR女川駅の開業に合わせて駅前に町内外の人々が集う交流施設「女川フューチャーセンターCamass(カマス)」をオープン。また、企業との協働事業では、Googleの「イノベーション東北」、さらに昨年からはロート製薬と予防医療の推進プロジェクトを実施している。
女川町が公民が一体となったまちづくりを実現できたのは、将来のまちの理念やビジョンを共有できたからだと思う。特に重要な役割を果たしたのが、復興・まちづくりを議論する復興連絡協議会だ。当時、還暦だった協議会の会長が「これからのまちを担うのは若い世代だ。30〜40代に任せて、還暦以上はサポートに徹しよう」と決め、かつ僕のようなよそ者も加わることで、世代やセクター、地域内外の壁を超えて民間で将来ビジョンを描くことができたのだ。そのうえで、一人ひとりが今置かれている課題と向き合い、主体的に考え、議論を重ねてきた。さらに、行政や議会もそうした民間のビジョンを受け止め、一緒になってまちづくりを行う機運が生まれた。このことが、その後公民連携の動きが加速していく土台になった。
このことから、僕はまちづくりにおいて重要なことは2つあると考える。まちの将来ビジョンや理念を全員で共有すること、でもそれだけでは足りない。そのうえで一人ひとりが主体的に考え、行動することだ。必ずしも、すべての地域が女川と同じようなまちを目指す必要はない。それよりも、各地域がそれぞれの文化に合ったまちの進め方で将来を全員で描き、それに向かって行動することこそ重要なのだ。
実際、女川町民の中に、外から言われるような「公民連携」を普段から意識して活動している人はきっと皆無だと思う。まちが目指すビジョン、つまり町の一人ひとりが同じ山の頂上に向かって、町内外の仲間と協力しながら、それぞれの登山道を歩いている。その結果として、外部から公民連携と言われているにすぎないのだ。女川を視察する人から、「どうすれば女川のようにセクターの枠を超えられる?」などとよく聞かれるが、僕はいつも「地域によって歴史や文化、気質や産業、公民の関係性などが異なるので、それを読み解いて、そのうえでどう歩んでいくべきかを住民たちが主体的に考える。そこがすごく大事だと思います」と答えている。
女川を象徴する「公民連携」は、あくまで1つの尺度でしかないのだ。例えば、人口が6000人ほどの女川に対して、10万人を超える地域は事情が異なるはずだ。それぞれの地域には、女川にはない固有の文化があるはずで、それをベースに地域全体でまちのあり方を問い、一人ひとりがその将来ビジョンに向かって、たとえ小さな一歩でも行動し続けることが大事だ。
女川以外の東北の各地域でも震災後、まちを盛り上げようと汗を流しながら奮闘し続けている個人・団体が数多く生まれ、よそ者の重要性、つまり外に開くことの価値や意義を学んだ。そういう主体的に活動するプレイヤーの歩みを途絶えさせず、さらに加速させていくことがとても重要だろう。その先に、各地でその地域特有のまちの姿が浮かび上がってくるはずだ。
ーBeyond2020 私は未来をこう描くー
市町村を超え、東北全体で社会変革のうねりを
東北はこれから、日本のどこにもないような社会課題解決のアイデアが広域的に生まれ、社会を変えていく先進的な場所に生まれ変わっていくだろう。これまで東北は地理的に遠かったり、閉鎖的な地域性をもつイメージが先行しがちだった。でも、前述したように「女川=公民連携」といったように各地域にそれぞれ独自の「地域らしさ」が生まれているので、東北全体が個性的でもっとおもしろい地域になるはずだ。個別の市町村単位で見れば、全国にも地域の課題を解決しようとユニークな活動をしている場所はあるが、「地域・地方」単位で広域的に新しいまちづくりや社会課題の解決に挑戦している場所は他にはない。各地域の取り組みが総和となって東北全体で大きなうねりを引き起こしていけば、全国に与えるインパクトは相当大きいだろう。
そのためには、震災後に立ち上がった個人や団体の活動を継続させるとともに、それらの各地域で同じ志をもつ者同士が互いにつながり、「東北全体としてどうしていくか」という大きな絵を描き、ダイナミックな動きに昇華させていく必要がある。
この6年間は、僕も含めて自分たちの地域や目の前の課題を乗り越えていくことで精一杯だった面がある。しかし、時間の経過とともに少しずつ余裕も生まれてきた。宮城・岩手両県は住宅建設などハードの復興はかなり進んでいるし、原発事故の影響が色濃く残る福島県も、ようやく住民が帰還できる環境が広い地域で整い始めている。だからこそ、今後は県や市町村を跨った地域間の連携や協力が生まれる流れになっていくと思う。
実際、最近は別の地域の仲間と会うと「一緒になにかやろう」という話で盛り上がることが増えた。僕らは今年に入り、隣接する雄勝町で子どもの宿泊施設を運営するモリウミアスと、牡鹿半島の民宿経営者の3者で「(牡鹿)半島全体を盛り上げよう」というテーマでセッション・議論をスタートさせた。単独の事業・活動ではやや広がりに欠けるようなことも、横のつながりで連携すれば実現できるものが多くあるはずだ。
だからといって、「東北はすごいぜ」と声を大にしてアピールするつもりはあまりない。瞬間的・爆発的に何かを起こし、ガンガン発信していくこと以上に、震災後に生まれた新たな機運や活動を息長く続け、少しずつでも広げていくことが大事だと思っている。今この瞬間に東北で活動している人もいれば、5年後に訪れる人もいるかもしれない。重要なのは「いつでも外に開かれている東北」であり続けることではないか。どこかの誰かが東北のことを思い出したり、興味をもったときに、いつでも「ウェルカム!」と扉を開けておくことが重要だ。
「体の一部」のように、自分のまちの課題や将来を考えよう
僕にとって、まちは「体の一部」、そして、まちづくりは社会課題の解決そのもの、つまり未来の社会をつくることだ。
病気になったら病院に行くのと同じように、自分の住むまちに何か課題があれば、それを解決しようと考え、行動する。自分たちの暮らすまちは、楽しくて暮らしやすい方がいいに決まっている。だからこそ、そうやってみんなが自分のまちを体の一部のように認識できれば、東北や全国の地域は住民たちが主体的に関わる、生き生きとした姿に変わっていくだろう。同時に、まちは「生き物」のように時代や環境によって課題が増えたり、変化したりするものだ。つまり、完成形や終わりがない。一人ひとりが常に考え続け、みんなで話し合うことで形成され、維持できるものなのだ。
今、僕が女川町で関わっているまちづくりは、まさに町民全員が「リーダー」として活動している。僕がリーダーとなるときは他の誰かが支えてくれるし、他の誰かがリーダーになったときは僕が黒子となって下支えする。固定化された関係ではなく、プロジェクトに合わせてみんなが柔軟にそれぞれの役割をこなそうとするのだ。
こうした町民総出のまちづくりこそ、日本の社会課題を解決し、未来の社会をつくることにつながるはずだ。女川をはじめとする東北各地は、少子高齢化や過疎化、産業衰退など震災前からあった課題に10年、20年早く向き合わざるを得なくなった。つまり、この場所でゼロからまちをつくる行為は、全国の地域がこれから直面するであろう課題へのヒントになり得る。「女川から日本の他地域をよくする」「女川を通して、世の中の社会課題解決のヒントを発信する」。僕はこれからも、これを理念・ビジョンに掲げて仕事を続けていく。同時に女川、そして東北から将来、僕たちが想像もできないようなアプローチと発想で、社会を変えるイノベーションが数多く生まれることになるだろう。