フリーランス編集者 木下真理子
1977年、福島県福島市生まれ。地域情報誌「dip」の編集長を7年間務める。東日本大震災後は、ap bankとのコラボレーションプロジェクト「Meets 福しま」で、震災と原発事故で揺れる福島の等身大の姿を伝える活動を展開。また、福島市内でコミュニティスペース「りんごハウス」を運営。2013年からは福島市発行の季刊誌「板木」の編集長に就任、福島の伝統や風習を伝える。現在はフリーランスで編集やライター業、写真撮影などをしている。
ー”あれから”変わったこと・変わらなかったことー
「国」「社会」とは何か
「放射能って何?」「死ぬかもしれないの?」。原発事故や放射線量に関する得体の知れない言葉が飛び交い、不安と混乱が渦巻く。「これはフィクションなのでは?」。事故からの数カ月間は、まるで映画やドラマの世界にいるみたいだった。
気がつけば、「避難区域」なんて言葉で勝手に住む場所を線引きされていく。同じ地域に住んでいても、住民1人ひとり、感じていることや置かれた状況は全然違うのに。「国」や「社会」という大きな物差しによって私たちの居場所は機械的に当てはめられ、その結果多くの人が傷ついた。次第に私は、そんな「大きなもの」への不信感を募らせていった。
「国」も「社会」も、ただの概念で実態がない。唯一リアルなのは個々の人。人が寄り添い合って、国や社会ができている。だから大事なことは、より小さなものを大切にしたり、1人ひとりに寄り添うことなのではないか。震災と原発事故に翻弄される日々の中で、私はいつしかそう思うようになった。
1人ひとりの名前を覚えてほしい
事故発生当時、私が編集長を務めていたコミュニティ情報誌「dip」は、混乱の中でも休まず取材を続け、直後の2011年4月も必死の思いで発行に漕ぎ着けた。でも、不思議なことに達成感はなく、去来したのは言い知れない違和感だった。ニュースでは連日、原発事故の様子が流れている。ほんとは心の中は不安や恐怖で一杯なのに、私たちはその気持ちに蓋をして、「変わらぬ日常」を誌面で伝えようとしていた。原発のことに触れることで、これまで積み上げてきたものが全部崩れてしまう。そんな恐怖があったんだと思う。
そして、次号。思い切って原発の企画を組んだ。資料を読み込み、勉強会やシンポジウムに足を運んでわかったことがある。それは、「本当のことは誰もわからない」ということ。結局、答えを出すのは自分しかいない。そのとき初めて、心の中がすっきりしたことを思い出す。
それからというもの、私は不安に気づかないふりをして、雑誌をつくり続けることに限界を感じていった。ここで目を背けたら、また同じような出来事が起きてしまうのではないか。2011年8月、雑誌の休刊を決断した。私にとって「dip」を手放すことは、6年以上かけて積み上げてきた仲間やコミュニティを自ら断ち切ることを意味する。でも、これ以上自分の気持ちに嘘はつけなかった。
「1人ひとりの名前を覚えてほしい。その人たちの普通の暮らし、そこで感じる苦しみや幸せを知ってほしい」。復興関係者が集まる場所に顔を出すようになった私は、ある日ap bankの小林武史さんから「福島に必要なことは何?」と聞かれてこう答えた。
それがきっかけで始まったのが、「Meets 福しま」だ。ap bank主催の音楽フェスでトークステージに立つなど、福島の人たちの等身大の暮らしを語ってきた。福島市内で運営していたコミュニティスペース「りんごハウス」は、ワークショップやイベントを開催し、自然なかたちで住民たちが不安や悩みを打ち明けたり、地域内外の人たちがつながる場づくりを行った。
そうして、改めて確信したのだ。実態のない「国」や「社会」に息を吹き込んでいるのは、私たち1人ひとりの意思と行動。その「小さなもの」の集積が、国や社会を浮かび上がらせているということに。
豊かな生き方を見直す特別な場所
あれから7年。世の中の価値観が、もっと大きく変わる気がしていた。事故当時の壮絶な状況を思い出しながら今の社会を眺めてみると、どうも世の中は想像していたほど変わっていない。
例えばそれは、経済成長を優先する風潮の根強さだ。経済成長を否定するわけではない。ただ、私たちは悲惨な経験をしたからこそ、自分たちの足元にある暮らしや、それを尊重する生き方が今頃もっと広がっていても不思議ではなかったはずだ。個人レベルでそうした価値観へシフトした人は多いけど、現時点ではそれが社会全体を動かすような大きなうねりにはなっていない。
ただ、福島に暮らしていると、その変化を強く実感できるときがある。避難するのか、しないのか。目の前にあるものを食べるのか、食べないのか。ここに住む人たちは、否応なくそういう選択を迫られた。大きなことから、細部に渡る小さなことまで、他の場所で普通に生活をしていたら考えないようなことを。自ら考え抜いて「ここ」を選び、前へ進んでいる福島の人たちには、心に芯がある。その集合体であることが、今の福島の強みなんじゃないかと思う。
さらに、震災と原発事故をきっかけに外のものにたくさん触れたことで、今まで当たり前に思っていた福島の価値を改めて知る機会が増え、自信や誇りをもてた。福島には今、これまでにはなかったような新しい文化やコミュニティが生まれている。私はそんな場所で暮らせていることへの満足感を感じている。
ーBeyond2020 私は未来をこう描くー
未来を生きるヒントは「過去」にある
人口減少をはじめ先行きが不透明なこの世の中で、私たちは何を大切にして、どんな未来を描けばいいのか。そのヒントの1つは、「過去」とのつながりにあるように思う。
それを教えてくれたのが、2013年から編集長を務めた季刊誌「板木」だった。この雑誌は、自然とともに生きる昔ながらの暮らしを紹介するというもの。福島に伝わる歴史や文化を、おじいちゃんやおばあちゃんに聞き取りをし、かたちにしていった。昔は、電気がなくても暮らしの知恵で暑さをしのぎ、天気予報がなくても空を見上げて気候の変化を感じ、人々は強く生きていたのだ。そしてそこには、抗えない自然や神という存在への感謝や敬意がある。
原発事故の後、とにかく迷い、答えを出せなかった私。しかし過去とつながったときに、「今」に生きるものとして、未来に何を残していくべきかの道しるべが見えた。断裂された「点」が、1つの「線」になっていく。そんな感覚を抱くようになった。
あの原発事故は、効率的で便利な暮らしや、行き過ぎた経済至上主義が限界点に達した末に溢れ出た、自然からの警鐘だったと感じるときがある。それによって失ったものはあまりに大きすぎるけれど。ゆえに、その出来事に私たちは、謙虚に向き合わなければいけないのではないかと思っている。
7年かけて取り戻した「私」の人生
3年間を目標に発行してきた「板木」の制作を終えて、充足感で満たされたその瞬間だった。小さなカケラを拾い集め、大切に積み上げて描いてきた未来に、ふと「私」がいないことに気がついた。「それで、あなたはどうしたいの?」。その問いは、衝撃だった。
「りんごハウス」のような場づくりや雑誌の編集者としての立ち位置は、全体としてのよりよい着地点を描く黒子のような存在だ。当時はそれが私に与えられた役割だと思っていたし、使命感みたいなものに突き動かされてきた。ただ、あまりにもそこに注力しすぎたがゆえに、「自分」の存在が少しずつ薄れてしまっていたのかもしれない。
そんな私を支えてくれたのが、カメラとの出会いだった。2016年から東京の写真学校に1年間通って技術を学んだ。初めは仕事のスキルアップのためにと足を踏み入れた世界だったが、その奥深さにすっかり虜になる。学びを深めるうちに、被写体と全力で対峙しないと、人の心を動かす写真は撮れないと感じるようになっていく。それはつまり、「おまえはどうなんだ?」という声と向き合う作業そのものだった。
カメラは、「私」の存在を知るきっかけを与えてくれた。「何かのために」「誰かのために」と考えるのではなく、ようやく今、私は「私」の人生を歩み出している。
不安定な世の中だからこそ、自分の思いを大切に生きる
「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える」。ドイツの神学者、マルティン・ルターの言葉だ。
世界情勢をみていると、何かのボタンの掛け違いで状況が一変しかねない。そんな危うさを感じるときがある。そんな不安定な社会に、私たちは生きているように思う。社会や国といった「大きなもの」の価値観もなかなか変化を感じられない。もどかしさもあるが、それでも私は「リンゴの木を植えよう」。そうやっていつも、心を落ち着かせている。
だから、自分を思うこと。外に答えを求めず、悲しみも苦しみも含めて、自分の思いを大切に生きること。不安定な世の中だからこそ、これが大事なことだと思う。国も社会も、結局は概念。私たちが勝手に描いたものに過ぎない。1人ひとりが「私」の人生を大切にして、そういう人同士でつながっていく。その先に、それが大きなうねりになって、結果的に社会が変わる瞬間が、訪れるかもしれない。
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