一般社団法人まるオフィス 代表理事 加藤拓馬
1989年、兵庫県生まれ。2011年3月、早稲田大学卒業。宮城県気仙沼市唐桑地区でボランティア活動を開始。同地区に移住し、2012年にまちづくりサークル「からくわ丸」を設立。住民と地域の魅力を再発見する「あるもの探し」活動やフリーペーパーの作成・発行などを実施。2015年、まちづくり会社の一般社団法人まるオフィスを立ち上げ、「地域協育」「移住推進」「若者支援」を軸に様々な事業・プロジェクトを展開している。気仙沼市役所でまちづくり担当の嘱託職員を務めたほか、気仙沼市移住・定住支援センターMINATOのセンター長も兼ねる。
ー”あれから”変わったこと・変わらなかったことー
”瞬間最大交流人口”の中に僕もいた
あの震災の後、三陸沿岸部には歴史が始まって以来の瞬間最大交流人口が生まれたのではないか。国内外から多くの人、しかも様々な立場や年齢、スキルをもった人が一斉に押し寄せ、復興や社会課題解決の実験場となり、あちこちで様々な変化が起きている。
僕自身も、その場に立つ1人だった。大学を卒業したばかりの僕は2011年3月30日、内定先の社長を訪ね、入社辞退を告げた。そして4月から、気仙沼市唐桑地区で瓦礫を片付ける日々が始まった。やがて瓦礫は撤去されたが、課題はあちこちにあった。移住を決断し、ここで本格的にまちづくり活動を始めることにした。
2011年秋、唐桑で頑張っている人を紹介するフリーペーパーをつくった。「一緒に頑張ろう」。3000部を配布したら、激励の電話が鳴り止まなかった。渋谷のスクランブル交差点で3000部手配りしても、きっと1本も電話は鳴らないだろう。地元の経営者の言葉を借りれば、”顔の見える歯車”がそこにはあった。自分の存在意義、役割をこんなに強く感じられるものなのか。そう驚いた。
まちづくりサークル「からくわ丸」を立ち上げたのは、2012年だった。”ないものねだり”ではなく”あるもの探し”をコンセプトに、住民とまち歩きをしながら地域の魅力を再発見する活動などに取り組んだ。
2015年には、まちづくり会社の一般社団法人まるオフィスを設立。人材育成や移住促進を柱に、中高生が漁師などの職業体験をする地域塾「じもとまるまるゼミ」や地元の経営者、リーダーたちの経験談を聞く「ぬま塾」などを実施している。若者の移住促進のイベント(気仙沼市移住・定住支援センターMINATO)も各地で開催しており、まるオフィスのスタッフ8人は、大半が東京など県外からIターンしてきた20代の若者だ。
地元愛の可視化と”人”への投資
僕たちよそ者の役割は、”地元愛の可視化”なんだと思う。もともと気仙沼の人たちは地元に対して強い誇りと愛着をもっている。ただその一方で、なぜか「都会にかなわない」といった中央への劣等感を必要以上に感じているように見えた。でも、僕らのような若いよそ者が活動していると、「どうやら都会の若者にとって、ここは魅力的らしいぞ」と意識が変わってくる。
あるおじさんは、以前は高校生の娘に対して「気仙沼に残る必要はない。都会で楽しんでほしい」と思っていたそうだが、最近は「都会もいいけど、ここもいいぞ」と地元暮らしを勧めるようになったという。ある若者にも、僕らと一緒にまち歩きなどの活動をする中で、「今までも地元は好きだったけど、その理由を考えたことはなかった。でも今は、なぜ好きなのか、ちゃんと説明できるようになった」と話してくれた。
この7年を振り返ると、自分たちの町の魅力を再発見し、誇りをもつ人が増えたように思う。同時に、地域全体でも「人」を重要な資源ととらえる考え方が生まれた。水産業で成り立ってきたこの町が50年、100年先を見据え、もっと根源的な「人」に投資する地域創生の考え方に軸足を移している。これは、今までにはなかった地域づくりの考え方の大転換と言えるだろう。
ツェルマットで学んだ「地域協育」の重要性
ここ数年、僕たちが最も力を入れているのが「地域協育」だ。地域ぐるみで力を合わせて次の世代を育て、子どもたちも地域も両方が豊かになる。そんな”協育”の仕組みづくりだ。
その大きなきっかけになったのが、スイスの観光都市・ツェルマットの視察だった。小さい町ながらも、世界随一の観光都市で知られる場所だ。僕が最も驚いたのが、驚異的なUターン率。その理由は、地域教育にあった。
例えば、ツェルマットの小中学校では地域の大人(事業者)が授業で講演するプログラムが盛んに行われている。つまり、学校だけでなく町全体で「地域アイデンティティをどう育むか」という考え方が浸透しているのだ。高校を卒業すると町の外へ出る子どもたちも少なくないが、それはあくまで”修行”のため。いずれ地元に戻って来る考え方が根付いているそうだ。
一方で、気仙沼はどうだろうか。人口約6500人の唐桑地区では、小学3年生が全3校を合わせて16人しかいない(2017年現在)。地域のキッズクラブが閉鎖し、子ども会も統廃合が進んでいる。教育は学校に依存し、子どもたちが地域に触れる機会が減っている。その結果Uターン率は一向に上がらず、少子化に歯止めがかからない。そんな負のスパイラルにある。
「30年後、唐桑で魚獲るヤツはいなくなるぞ」。地元漁師との会話で、ふと耳に入ってきた言葉が忘れられない。次の世代にどう投資するか。これが文化として町に根付けば、持続可能な地域になれるはずだ。体験型地域塾「じもとまるまるゼミ」を企画した大きな理由は、そこにある。漁師をはじめとする大人たちの暮らしがいや働きがいを体験し、何かを感じてもらう。そんな地元愛を育む「地域協育」の仕組みをつくること。これが僕らの大きな挑戦なのだ。
ーBeyond2020 私は未来をこう描くー
夢を諦めさせない新しいコミュニティ
都会から来た若者たちが、楽しみながら地域のために活動している。周りからはそう見えるかもしれない。確かに僕自身、地域の人たちにもよく面倒をみてもらい、ワクワクしながら充実した日々を送っている。でも、ジレンマもある。「じもとまるまるゼミ」をはじめとする活動が、子どもたちに「将来は地元に帰ってこいよ」とUターンを強制していないか。その不安が常につきまとうのだ。
「コミュニティは、夢を諦めさせる装置だ」。財務省に勤める高校時代の先輩から、そう言われたことがある。要するに、豆腐屋の子どもは豆腐屋を、米屋の子どもは米屋を継いでもらわないと、コミュニティは維持できない。仮に子どもに都会のIT企業で働きたいと言われても、コミュニティを存続させるには夢を諦めてもらう必要がある。子どもにとっては、それは”呪い”でしかないだろう。
僕らが目指しているのは、それとは異なる新しいコミュニティのあり方だ。それは、選択肢の豊かさが担保されているコミュニティ。つまり、夢を追って都会へ出て行くこともできるし、誇りをもって地元に居続けることもできるし、一度出て行った人も気持ちよく帰って来られる。そんな姿だ。
そのためにも、「じもとまるまるゼミ」などの「地域協育」プログラムを通して、町の仕事や暮らしに誇りをもつような子どもたちが自然と生まれてくれたら嬉しい。でもそれは、決してUターンだけを推奨しているわけではない。
同時に、気仙沼に帰って来たいと思っている人たちにも、しっかりとその機会や町の魅力を発信する必要があるだろう。僕らは仙台や東京などで移住イベントを開催しているが、そこで出会う気仙沼出身者の中には、少なからず「帰りたい」と考えている人がいる。でも、仕事がないと感じていたり、Uターンに”都落ち””敗者”といったマイナスのイメージをもつ人が多いのも事実だ。彼らが元に戻って来られる環境をどうつくるか。これも大きな課題だ。
都会であろうが地域であろうが、なんのバイアスもかからずに、平等に人生を選択できる状況。そういうコミュニティを、たとえ時間はかかっても、ここ気仙沼でつくり上げたい。
浜の暮らしが再評価される時代へ
「ここは俺の浜だ」。三陸沖に突き出した半島に位置する唐桑地区。この場所に来たばかりの頃、浜の人たちがこう口々に言っていたことが印象に残っている。海から財(リソース)を得て、そこに人の営み、集落が生まれ、コミュニティが潤っていく。そんな浜を起点にした暮らしが、僕にとっては新鮮で、奥深さを感じたものだ。そんな地域の味わいが失われていくのは、とても寂しい。
今、日本の地域がどんどん画一化されているように見える。国道沿いにショッピングモールが立ち並び、そこにあるのはチェーン店ばかり。そんな同じような景色が広がっている。
これだけ働き方も暮らし方も多様化し、移動やコミュニケーションの技術が発達している時代において、どこに行っても同じサービスが受けられることが豊かだという価値観は古い。”ここにしかないもの”こそ、これからの価値になるはずだ。
今は見向きもしない人がたくさんいるかもしれないけど、近い将来、必ず浜や地域の暮らしに価値が見出される時代が来る。でもそのとき、浜の暮らしが残っていなかったら、それは日本にとって計り知れない損失になるだろう。失った後に「あのときは豊かだったよね」などと嘆いても、そう簡単に取り戻せるものではない。社会に再評価される日まで、なんとかしてこの暮らしを維持したい。まずは僕自身が、震災後に降り立った気仙沼でその役割を担いたい。
中国のハンセン病回復村で感じた原点
僕の人生の原点は、学生時代に通った中国のハンセン病回復者が暮らす村にある。ここで何度もボランティア活動をしていた。村の人たちは社会から差別や偏見の眼差しを向けられている。でも僕が現場で感じたのは、芯の強さや力強い生き方だった。現場に立って、人と出会う。その意味の重さを痛感し、そういう現場感のある生き方をしたいと思ったのだ。
「群盲象をなでる」という中国の故事を知っているだろうか。ある目明き(目が見える人)が6人の盲人に向かって、1匹の象を指差して「あれが何かを当てなさい」と言う。象の足を触った人は「柱」、尻尾を触った人は「紐」などと答える。それを見た目明きが「象だよ」とバカにして笑うという内容だ。物事を部分的にしかとらえず、全体を見ないことを表す故事だ。
その話を教えてくれたボランティアの先輩は、僕にこう言った。「本当に象のことを知っているのはどっちだと思う?確かに全体は見えていないかもしれないけど、触った人は象の肌の触り心地や体温を感じただろうね」
僕は、象の触り心地や体温を感じられる人生を送りたい。そして今、この町でそんな日々を過ごすことができている。大好きな浜の暮らしや地域の多様性を守るために、子どもをはじめ地域の人たちがもっと誇りをもてる町にするために、まだまだここで力を尽くしたい。
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