【Beyond 2020(38)】復興を越えて、ソーシャルビジネスに今必要なこと

一般社団法人MAKOTO 代表理事 竹井智宏

1974年生まれ。東北大学生命科学研究科博士卒。卒業後は、東北大学の産学官連携コーディネーター、ジャパン・ティッシュ・エンジニアリングを経て、2007年から、東北イノベーションキャピタルでベンチャー企業への投資及び支援に従事。東日本大震災後の2011年7月、一般社団法人MAKOTOを設立し、東北の起業家・経営者の支援を開始。コワーキングスペース「cocolin」(仙台市)やクラウドファンディングサイト「ChallengeStar」(現在は終了)の運営、全国から起業家が集まる大規模なイベントの地元開催など、数々の起業家支援策を展開。現在は特に、ベンチャー企業への投資・育成を行うファンド事業や、銀行や地方自治体とともに起業家の育成を行う地方創生事業を活動の柱に据えている。

ー”あれから”変わったこと・変わらなかったことー

社会を扶養する覚悟

360度、見渡す限り瓦礫の山。自然に元通りに戻ることはなく、誰かに任せておけば片付くものでもない。「何かしないと」「自分が動かなければいけない」。目撃者の心の中に、本能的にスイッチが入った。それは何も、東北にいた人たちだけではない。テレビであの惨状を目の当たりにした日本中の人たちが、当事者意識を呼び覚まし、心を起動させた瞬間だった。

心のスイッチ。それは、「社会を扶養する覚悟」と言い換えられるのではないか。親に扶養されて過ごした未成年から、結婚や出産を経て今度は扶養する立場へ変わる。それと同じように、今まで社会に扶養される立場だった私たちは、自分たちで社会を支える立場に変わろうと立ち上がった。言い古された「社会の傍観者」や「当事者意識の欠如」を捨て去り、社会を引っ張っていく覚悟を手にしたのだ。

3.11は、それだけ多くの人々の人生に大きなインパクトを与えた。私たちはあの瞬間から、新しい歴史と時代を刻み出した。

広がる起業家エコシステム

「今動かないで、いつやるんだ」。私の中にも、心のスイッチが灯った。忘れもしない12年前の出来事。人一倍、社会貢献の思いが強かった妹が、なかなか世間に馴染めず、そのギャップに苦しみ遂には自死してしまったこと。妹のように、社会のために頑張りたくても、うまくいかずに苦しんでいる人がいる。この社会は今、人が生きにくい方向へ向かっていないだろうか。そうやって悶々と考えていたときに起きたのが、あの震災だった。「今しかない」。そう決意が固まった。

人が幸せに生きられる社会をつくりたい。それを志ある起業家を支援することで実現させる。これをミッションに掲げ、私は独立して一般社団法人MAKOTOを設立した。コワーキングスペース「cocolin」(仙台市)やクラウドファンディングサービス「CHALLENGE STAR」(現在は終了)の運営、さらに全国から700人を超える起業家を集めたイベントを開催するなど、東北における起業家のエコシステム構築に取り組んできた。

起業家支援の拠点の1つとして設置したコワーキングスペース「cocolin」

また、現在は特に、日本初の再チャレンジに特化した「福活ファンド」をはじめとするいくつかのファンド運営のほか、東北の6つの銀行や15の自治体とともに起業家育成事業に力を入れている。さらに東北大学と連携し、同大発のベンチャー企業を2030年までに100社つくることを目標にした「東北大学スタートアップガレージ」をスタートさせたほか、同年12月にはJ.P.モルガンと東北を舞台に新たな起業家育成プログラムを開始することでも合意した。

全国各地から起業家を集めたイベントも開催している。

ファンド事業では、動かない足でもこげる車椅子「COGY」を販売する株式会社TESS(仙台市)や、数々の地域活性化事業を行う47PLANNING(福島県いわき市)などに投資している。投資先の成長は著しく、従業員が100名規模に成長したり、大企業からの増資が決まるところも。株価は平均5倍くらいの価値上昇をみせており、一定の実績をつくれている。私たち自身も、フルタイム14名、非常勤を合わせて23名の会社に育ってきた。

”自分主語”ではなく”社会主語”の起業

震災後、東北の起業率は急激に高まった。特に仙台市は、福岡市に次いで全国2位の水準にある。宮城県単位、そして東北エリアで見ても、震災前後で軒並み上がっている。震災で身近に亡くなった人を数多く目の当たりにし、「いつ死ぬかわからない」「思い切りやりたいことにチャレンジしよう」。そうやって、1度しかない人生を自分の意思で歩み出した人が多かったからだろう。

もう1つ、大事なことがある。そうした起業家たちの多くが、「東北の役に立ちたい」「社会の課題を解決し、人を助けたい」と社会性を強く意識していることだ。いわゆるソーシャルビジネス・ベンチャーは全国的にも増加傾向にあるが、東北は特にその意識が強い。「一攫千金を」といった”自分主語”ではなく、世の中に対して何ができるかという”社会主語”のビジネスが数多く生まれているのだ。

私たちも、投資する際にはそうした「志」を重視している。「社会や地域のため」といった熱意があればあるほど、周囲の共感を呼び多くの人を巻き込める。そうした能力のある起業家こそ将来性があるのではないか。そう考えているからだ。

日本の歴史はここ(東北)から大きく変わっていく。それが、私があのとき確信したこと。しかし、そのとき思い描いた理想の未来と震災7年後の現実は、残念ながら遠くかけ離れてしまっている。それは、なぜだろうか。

ーBeyond2020 私は未来をこう描くー

ソーシャルセクターに足りないもの

私が夢見た7年後の東北。それは、東北から生まれた事業やサービスが日本中に広がり、世界にも通用するようなものになっている姿だった。

もちろん、沸々と変化の胎動は起きている。ただ、復興界隈の人なら誰もが知っている”スター事例”は数多くあっても、全国の消費者が当たり前のように使っている東北発のサービスは、まだ生まれていない。つまり、まだ震災復興の文脈を拭い切れていないのだ。震災直後、東北オリジンの新しい事業には多くの支援が集まり、周囲の注目も浴びた。そのように、下駄を履かせてもらった勝負から脱却しないと、本当の価値をつくることは難しいだろう。

起業家を育成するため、東北の銀行や自治体とも連携している。

思想だけでは、社会を変えることはできない。確かに、ソーシャルセクターのビジョンや理念はすばらしい。でも、それは形にしてこそ本当の意味で社会にインパクトを与えることになる。端的に言えば、ソーシャルセクターは経営力と実行力をもっと鍛える必要がある。

ソーシャルセクターの間には、金融資本主義を仮想敵と位置付けるような考え方が散見される。お金だけが価値ではない。それはよくわかる。ただ、お金はどんな事業でも必要不可欠な血液だ。お金をしっかり回さないと、理想は絵空事に終わってしまう。それは私たち自身にも言えることだ。

私たちは、ビジネスセクターとソーシャルセクターの狭間に位置しているので、いろいろと考えさせられるし、見えてくるものがある。自戒を込めて言いたい。「世の中にいいことしてるから」「お金じゃないから」。そういうところに逃げ込んで、甘えてはいないだろうか。

丸森町(宮城県)の起業家育成プロジェクトは、自治体連携事業の1つだ。

ソーシャルビジネスは、通常の営利ビジネスよりも難しい。多くの人は勘違いしているかもしれないが、それが事実である。だからこそ、成功させるにはビジネスセクター並み、いやそれ以上に高いレベルの経営力と実行力が求められる。資本主義を必要以上に毛嫌いするのではなく、むしろその仕組みに上手に乗りながら、真摯にビジネスセクターで用いられている方法論を学び、戦える武器を身につける努力をストイックに続ける必要があるだろう。そのうえで、今までの延長線上ではなく、より大胆に事業をつくり上げてほしい。

”東北から世界へ”の夜明け前

世界の人たちが当たり前に使っているサービスが、実は東北から、震災があったから生まれた。そう言われる将来を、もちろん今でもあきらめてはない。あれだけの悲惨なことが起き、世界中の数え切れないほど多くの人が支援してくれた。だからこそ、ここから世界に通用し、世界に貢献する事業・サービスをつくり出したい。

その”夜明け前”を予感させるようなモデル事例も生まれてきている。宮城県山元町でイチゴを生産するGRA(代表:岩佐大輝)や「東北食べる通信」から派生して生まれたポケットマルシェ(代表:高橋博之)を筆頭に、東北で育ったベンチャー企業が全国的な起業コンテストなどで賞をとるケースが生まれている。これらは震災復興の文脈を越えて、事業・サービスの実力と価値が評価されている証だ。

ベンチャー企業を100社つくることを目指している「東北大学スタートアップガレージ」

かつて明治維新を主導した長州藩。彼らの背景を辿っていくと、関ヶ原の戦いでの敗戦が転換点になったと言われている。敗れたことで領地が減らされ、大量の武士がリストラされた。ただ、その武士たちが寺子屋や私塾をつくり、それが教育の基盤となって人が育ち、最終的に幕末へと向かっていったそうだ。関ヶ原の敗戦という悲劇、そしてそれを経験した人々が、実は今の時代をつくる礎となったのだ。

私たち1人ひとりは、東日本大震災という悲劇の目撃者、そして後世にバトンを渡す「時代の礎」として何をなすべきか。まだまだ、これからが勝負だ。「これが成功モデルだ」という動きをどんどん増やし、それを日本、世界中に普及させる。より大胆に仕掛け、より多くの人を巻き込みながら、結果や価値をつくっていく。今まで以上に、強い意思と実行力で臨んでいきたい。

”MAKOTOハイウェイ”を世界中に敷設する

「2061年、”MAKOTOハイウェイ”を構築し、世界中にインストール(敷設)する」。私たちは創業50年後のビジョンを、こう掲げている。

私たちの言う「MAKOTOハイウェイ」とは、志をもって世の中をよりよく変えようとする起業家が成功しやすい仕組みのこと。これをまず東北で完成させ、その後、全世界に広げていくイメージだ。このMAKOTOハイウェイを使って、社会に役立ちたいと思う人が次々と成功し、世の中に社会課題が生まれるそばからその起業家たちが解決してくれる。そんな未来が実現することを思い描いている。

時々私は、自分自身が「自ら道を切り拓いている存在」であると同時に、「何かに導かれている存在」でもあるように感じることがある。社会をよくしたいと願った妹の死、そして家族の死、多くの人の命が奪われた震災。それらを背負いながら、時代の礎として、これからも私に課せられた使命と役割に向き合っていきたい。