一般社団法人マルゴト陸前高田 理事 伊藤雅人
陸前高田市出身。介護福祉士として地元の介護施設などに勤務。東日本大震災後、災害ボランティアセンターの運営業務に携わる。2011年7月にNPO法人を設立、子ども支援、ボランティアのコーディネートを開始。その経験やネットワークを生かし、現在は東京の大手企業や国内外の大学向けの研修プログラム、中高生を対象にした民泊修学旅行などを実施している。
ー”あれから”変わったこと・変わらなかったことー
いつのまにか”関わる人が多い町”になっていた
あっという間に過ぎ去った7年だった。ただ、陸前高田にはまだ多くの課題がある。人口は震災前の約2万3000人から1万9000人ほどにまで減少した。中心市街地の土地区画整理事業は計画よりも工事が遅れており、整備が済んだ一部の区画もまだ更地が多いのが現状だ。
「いつ終わるんだろう。いや、果たして終わるのか…」。津波に飲み込まれた町を見たとき、最初に浮かんできたのはそんな絶望だった。「復興」とは何だろうか。早く終わらせたいけど、そもそも何を終わらせるのか。それを探し続ける日々。気がつけば、私の人生も一変した。どこにでもいるような介護福祉士が、都心に建つ高層ビルの一室で、大企業の役員たちと打ち合わせをする。誰がこんな姿を想像しただろうか。
陸前高田に生まれ育ち、地元でずっと介護福祉士として働いてきた。震災後は、災害ボランティアセンターの運営をサポート。その後、2011年7月にNPO法人パクトを立ち上げ、ボランティアのコーディネートを始めた。そこで見えてきたある”副産物”が、現在取り組んでいる企業・大学の研修プログラムなどの原点と言っていいかもしれない。
作業を終えたボランティアが帰り際、口々に発した「また来るね」という何気ない言葉。数日、数週間すると、本当にまたやって来た。次第に住民たちの意識が変わり始める。「また来てくれるなら、畑で野菜を育てて今度食べさせてあげよう」。そんな風に、気持ちが前向きに変化していった。「ボランティアの最大の役割は、こういうことなんじゃないか」。外の人との出会いや交流が市内のあちこちに点々と広がれば、地域全体が元気になるーー。その仮説をもとにあの手この手を尽くしてきたら、陸前高田はいつのまにか”関わる人が多い町”になっていた。
増え続ける企業・大学研修と修学旅行
2012年12月、災害ボランティアセンターが閉鎖。それ以降、徐々にボランティアフェーズが収束していく流れが加速した。だったら、別の目的で陸前高田に来てもらおう。そうして始まったのが、企業・大学向けの研修プログラムや中高生を対象にした民泊修学旅行だ。
震災から7年経った今も、その参加者は増えている。2017年に研修をコーディネートした企業は40社、大学は10校に上り、民泊修学旅行は前年の2倍となる10校(1750人)に増えた。全体の年間の受け入れ人数は、前年の2500人ほどから4000人超にまで膨れ上がった。
企業でいえば、例えば東京海上日動は新入社員研修の参加人数が2017年の100人から、2018年は140人ほどに増加した。工場や支店の誘致は難しくても、毎年多くの社員に来てもらう企業誘致があってもいい。大学も、陸前高田でキャンパスを共同運営する岩手大学と立教大学を筆頭に、国内外から数多くの学生が参加してくれている。
研修プログラムは、住民との対話や一次産業の体験などを中心に組み立てている。おそらく、コンテンツそのものに特段のインパクトがあるわけではないだろう。ただ、ボランティアセンターが閉鎖して以降、多くの企業や大学が”次のフェーズの関わり方”を模索していた中で、私たちは当時からずっと「いろいろ試しながら必ず何かの形にするから、とにかく続けてくれ」と言い続けてきた。そうしたことが、結果的に人の流れを途絶えさせず、今につながっているのだと思う。
ずっと心がけてきたのは、有言実行だった
この7年間で私の人生、そして仕事への向き合い方は様変わりした。それまでは、仕事がうまくいかないときは周りの環境のせいにしていた私だが、震災後は環境がどうこう言っていられない状況だった。せっかく生き残った命。私はあの瞬間から、”できない理由”を探すのではなく、”できる理由”をひたすら見つけよう。そんな風に意識が180度変わった。
そのうえで、私がずっと心がけてきたことがある。それは、有言実行を貫くことだ。ボランティアの経験もなければ、地域活動に参加したこともない。ボランティアのコーディネートを始めた頃も、最初は住民たちになかなか信用してもらえなかった。それでも、ひたすら行動し続けた。今では地域住民だけでなく、行政との信頼関係も生まれ、一緒にプロジェクトを企画するようなことも少なくない。
震災を経験してはっきりわかったのは、アイデアや意見を口にするだけの人は信用されない。成功しようが失敗しようが、実践している人間が信用されることだった。どこにでもいるような介護福祉士が、東京の大企業と一緒に仕事をするなんて夢にも思わなかった。小さな有言実行を繰り返し、人と人がつながる出会いを地道につくってきただけだ。ただ、そうやって人がつながることで、大きなことができるようになる。それを実感できた日々でもあった。
ーBeyond2020 私は未来をこう描くー
動き出した”パラスポーツの聖地化”構想
「ノーマライゼーション(※1)という言葉のいらないまちづくり」。陸前高田市の復興計画で掲げられたテーマだ。障がいのある人もない人も、若者も高齢者も、地域住民も観光客も、助け合いながら誰もが快適に過ごせるまちづくりのことだ。「ノーマライゼーション」や「バリアフリー」という言葉すら意識する必要のない地域をめざして、公共施設を中心にユニバーサルデザイン(※2)の取り組みを進めている。
プラン策定から7年を前に、これまで蒔いてきた種が少しずつ芽を出してきた。その鍵を握るのは、パラスポーツ(障がい者スポーツ)だ。2020年に開催される東京五輪・パラリンピックの先を見据え、陸前高田をパラスポーツの聖地にしよう。そんな一大構想が動き出しているのだ。
選手、企業、子どもが集う場所へ
2018年3月17日、車いすバスケットのパラリンピック日本代表選手が、軽快な動きで次々とシュートを決めていく。市内で車いすバスケットの体験イベントを、サントリーホールディングスと共同開催したときの光景だ。
今後は国際大会や選手合宿なども誘致する構想があり、実現すれば多くのパラアスリートがこの町を訪れることになる。一時的な滞在だけでなく、例えば選手を市の嘱託職員として採用し、仕事と練習を両立しやすい制度を導入するとしよう。そうすれば、より多くの選手がやってくるかもしれない。
選手だけではない。パラスポーツの人気が高まっている現在、障がい者スポーツ器具の開発に注目する企業が増えている。研究開発には実際の選手の意見を取り入れることが必要だ。パラアスリートが陸前高田に多く集まっていれば、ここに開発拠点を置くような企業が出てくることも考えられるだろう。必然的に、地元で新たな雇用が生まれることになる。
さらに、パラスポーツを企業研修のプログラムにも盛り込めば、研修のニーズもさらに高まるだろう。障がい者との交流を通して、ダイバーシティ(※3)を体感できるからだ。大学も同じだ。障がい者スポーツを扱う講座が増える傾向にあり、陸前高田をフィールドワークの場として使用するようなことも十分考えられる。
何より、同じように障がいをもつ子どもたちがここでパラスポーツを観戦したりすることで、将来の夢や可能性を広げるような機会にもなるはずだ。実際に今、特別支援学校を民泊修学旅行に誘う活動を始めており、2017年には聴覚障がい者の聾(ろう)学校を受け入れた。
私が描くこうしたビジョンは、行政や東京の企業などと一体となって取り組んでいくものだ。まずは今から5年後に、”陸前高田といえばパラスポーツ”といった合言葉が広まっているような状況をつくりたい。
すべてはたった1人の意思と行動から始まる
社会に1つ、問いたいことがある。もう「誰かが何とかしてくれる」という他人任せの考えは捨てよう。願いや不満があるなら、まずは自ら行動しないと。「1人では何もできない」と言うかもしれない。でも、その1人を2人、2人を3人にするのも、たった1人の意思と行動から始まる。これは、私自身がこの7年間で痛感したことだ。
ここ陸前高田にも、”行動する人”のうねりが広がってほしい。ただ、「7年」で一括りにすることはできない。気持ちの整理のつけ方や立ち直りに必要な時間は人それぞれで、当然長く時間がかかるケースもある。だから無理せず、前に進めるようになった人から順番に、自分なりの役割を見つけ、行動してもらえたら嬉しい。
陸前高田をパラスポーツの聖地に。そんな町の姿が地元に浸透し、伝統や文化として語られるようになるのは、きっと私がこの世を去った後だろう。私は生きている間にその土台をつくり、次世代へつなぐサイクルを生み出したい。それが震災7年の、私の決意だ。
※1 社会福祉をめぐる社会理念の1つで、障害者も健常者と同様の生活ができるように支援するべきであり、それが本来の望ましい姿であるとする考え方。
※2 文化・言語・国籍の違い、老若男女といった差異、障害・能力の如何を問わずに利用することができる施設・製品・情報の設計(デザイン)。
※3 性別や人種などの違いを受け入れ、多様な人材を積極的に活用しようという考え方。
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