【Beyond 2020(51)】3.11後の社会、生き方を問う

NPO法人東北開墾 代表理事 高橋博之

1974年、岩手県花巻市生まれ。29歳で故郷に戻り、岩手県議会議員を2期務める。東日本大震災後、知事選に出馬するも落選。その後、事業家に転身。2013年、NPO法人東北開墾を設立し、食べもの付き情報誌「東北食べる通信」を創刊。2014年に一般社団法人日本食べる通信リーグを立ち上げ、「食べる通信」モデルの全国展開を開始、現在全国39地域と台湾4地域で創刊。2015年、食のC2Cサービスを展開する株式会社ポケットマルシェの代表に就任。

ー”あれから”変わったこと・変わらなかったことー

3.11が突きつけた社会の弱点

自然災害はその時代の社会の弱点を浮き彫りにし、それを乗り越えるための仕組みや価値観を産み落とすと言われる。では一体、東日本大震災が私たちに突きつけた弱点は何だったのか。

私と自然、私とあなた、私と社会。都市と地方、生産者と消費者。震災が浮き彫りにしたのは、戦後の近代化によってもたらされたそれらの”分断”だった。だが、それと同時に産み落としたものがある。それは、”関わり”だ。

経済効率をひたすら追い求め、人間の思い通りになる社会をつくってきたのが近代だった。思い通りにならない自然や地域社会、他者を面倒で煩わしいものと決め込み、都会になだれ込んでは自由で快適で便利な生活を謳歌した。

しかしそれと引き換えに、”関わり”を通してしか得られない生きる術や生活の知恵を手放してしまったとも言える。それでも、1人で生きていくことはできない。だから、生きるために必要なものは貨幣と交換することで、暮らしを成り立たせてきた。そして、「税金を納めてるんだから、行政がなんとかしてくれよ」。私たちはいつしか、そんな観客席の上から高みの見物をする”お客様(他人事)”になってしまった。当事者性を失い、関わりを断絶した一億総観客社会から、活力など生まれようもない。

産み落としたものもある。「関係人口」だ

あの震災は、人口減少下に日本を襲った初めての大規模な自然災害だった。人口が増え、経済が成長していく時代であれば、右肩上がりの経済の力で解決できることも少なくないだろう。しかしそうではなく、ただでさえ過疎・高齢化で行き詰まりを見せていた沿岸部の農漁村に、トドメを刺すかのように津波と原発事故が襲い掛かった。

そんな被災地を支えたのが、都市住民だった。都市から多くのボランティアが被災地に入り、まるで自分ごとのように知見や技術、ネットワーク、体力、時間、お金を使った。助けに来たはずの都市住民も被災者に感謝され、誰かの役に立ったという手応えを感じ、元気になって都会へ帰っていく。

被災者と支援者。1人ではできないことを、それぞれの強みと弱みを補い合うような関係性で乗り越える。僕はこの関係性こそ、分断を乗り越え、経済的な豊かさだけに依存せずとも人が幸せに生きられる、ヒントになると確信した。食べものの裏側にいる生産者と、消費者をつなぐ。そうした理念を掲げて創刊した食べもの付き情報誌「東北食べる通信」も、まさにそうした”関わり”をつくるためのメディアだ。

「東北食べる通信」創刊号で特集した石巻市牧浜の漁師・阿部貴俊さんと。編集長として生産現場を数多く取材している。

独活(うど)を特集した最新号(2018年3月号)

確かに被災地では住民の数、すなわち定住人口は大幅に減った。しかし、その町に暮らす人の現状に思いを馳せ、未来を案じ、継続的に関わりを持ち続ける人は、震災後にぐんと増えている。「食べる通信」のモデルも全国39地域に広がり、台湾でも4地域で創刊した。読者は延べ1万人を超え、地方にいる生産者との交流を広げている。

このように、何らかのかたちで都市と地方を行き来するような人たちを、私は4年前から「関係人口」と定義し、社会に提唱してきた。定住人口は増えないし、観光などの交流人口も一過性のものだ。継続的に関わりを持ち続けてくれる「関係人口」を増やせれば、人口減少社会に新たな地平を開くことができるはず。それが、被災地に産み落とされた1つの希望だったのではないか。

7年前のことが、忘れ去られたかのようだ

ところが、7年が過ぎた今感じるのは、圧倒的な徒労感、そして絶望感だ。私の周りには、今も被災地の復興や社会変革に奮闘する人が数多くいる。そうした情報に触れる度に、「社会は変わっている」などと錯覚しがちになる。でも、少し俯瞰して世の中を見てみると、圧倒的大多数はそうではない。地方はますます疲弊し、明日への希望をもてずにいる人がたくさんいる。その一方で、都会にはもはや希望もいらぬほどに現在に満ち足りている人が少なくない。オフィス街の飲み屋で交わされる会話を聞けば、7年前の出来事が忘れ去られたかのようである。この圧倒的な断絶に、言葉を失う。

あの日、人間がつくった町が、巨大な自然の力によって積み木のように押し流された。原子力が暴走し、私たちの暮らしは土台から揺るがされ、人々は逃げ惑った。東京でも交通機関が麻痺し、帰宅難民が続出。スーパーから食べものが消え、必死に節電した。

「このままでいいのか」。あの瞬間、多くの日本人がたじろぎ、生き方や社会のあり方を見つめ直したはずだ。有識者も、大量消費や量的拡大の近代文明を変えないといけない。そうやって文明論まで展開したが、今はほとんど見聞きしなくなった。”無関心”という名の惰性の回転が、またくるくると回り始めている。

被災地で生まれた社会変革の機運も当初こそ勢いがあったが、”復興”の機運がピタりと止み、スピードが随分と落ちたように見える。被災地発のソーシャルビジネスは大量消費社会に威勢良く入り込んだものの、今や押し戻されながら悪戦苦闘しているところが目立つ。

ーBeyond2020 私は未来をこう描くー

”食べる人”と”つくる人”をつなげる

被災地に産み落とされた”関わり”、そして関係人口。重要なのは、これを日常でも生み出し続けることだ。そのきっかけとして、「食」ほどわかりやすい入口はない。なぜなら、”食べる人”が都会にいて、”つくる人”が地方にいるからだ。食べものを通じた”食べる人”と”つくる人”とのつながりは、日常でも関係人口を生み出せる装置になるはずだ。

「食べる通信」をきっかけに、漁師や農家は消費者とつながり、直接コミュニケーションを交わす機会を得た。

”つくる人”と”食べる人”、つまり生産者と消費者の関係は本来、相互依存関係にある。消費者にとっては、命の根源を支える食べものを、自分の代わりに生産してくれている存在こそが生産者である。その生産者とつながり、支えることは、自分の暮らしを取り巻く環境に、間接的とはいえ主体的に参加することでもある。食べることは、生きることそのものなのだ。そんな生きる原点である食の世界に足を踏み入れることは、自分の命や暮らしを取り巻く環境の言わば”一丁目一番地”であり、参加へのハードルが比較的低い。

そのためにも、私たちは一刻も早く、現在のような工業的な食事ではなく、人間的・文化的な食事の時間を取り戻さなければならない。自然を排した都市で生きる私たちにとって、自然や暮らしに直結している生産者の世界を知ることは、自らの中に眠っていた自然を発見し、生きる実感や手応えを取り戻すことになる。食べることは、自然とつながれる回路なのだ。

「食」について語り合う「車座座談会」。全国各地を駆け回っている。

経済効率や合理性に染まった都市で、代替可能な機械部品のような存在になっている人は、心の充足感を渇望している。億単位のお金を回すプロジェクトを動かしていても、エンドユーザーの顔が見えない。右から左へ数字をマウスで動かし、その手数料で稼ぐ。一体何のために、誰のために働いているのかわからない。やりがいも感じない。確かに儲かるし、快適で楽ではあるけれども、生きる実感に乏しい。そう感じている都市住民は少なくない。

一方で地方の生産現場は、実にシンプルである。生きるために必要な食べものを、体を動かして自分でつくっている。彼らは生きることを頭で考えるのではなく、体で感じているのだ。そんな”自然の通訳者”である生産者との関わりを、一刻も早く取り戻さなければならない。そこには、私たちの心の渇きを潤す力があるからだ。

”関わり”から生まれる人口の”質的転換”

生産者と消費者、都市と地方。相互依存関係であるはずの双方のバランスが、今はあまりにもいびつになってしまっている。「東北食べる通信」の誌面で対談した解剖学者の養老孟司さんは、現在の都市を「脳化社会」と名付けた。要するに、頭しか使っていないというわけだ。

高層ビルの箱の中で、夏だろうが冬だろうが一定の温度で過ごす予定調和の毎日。腹もたいして減っていないのに、12時になればとりあえずランチに行く。そして、オフィスではパソコンと、満員電車ではスマホと向き合い、指だけを動かしている。だから、頭と体の均衡が崩れる。バランスをとろうと、昼夜ジムに通っては汗を流している人も少なくない。走れば息がきれるし、汗をかくし、腹も減る。

この頭と体の不均衡な関係は、都市と地方の関係にも似ている。国も個人も頭でっかちになって、よたよたしている。大きくなった”頭”や”都会”を支えられるだけの”体”と”地方”を、同時につくっていかなければならない。日本が再び息を吹き返すことができるかどうかは、”都市と地方をかき混ぜる”、つまり関係人口を増やすことができるかどうかに懸かっている。繰り返すが、その入口にあるのが「食」なのだ。

「食べる通信」の読者が生産者の畑を訪問するなど、交流が広がっている。

人口減少と高齢化の時代に突入し、物質的豊かさは行き渡り、経済は低迷。税収も減り、行財政資源も縮小を余儀なくされている。ましてや”人生100年時代”が迫る。社会保障コストもますます膨らんでいく。そうした社会でいかに私たちが豊かに、自分らしく生きることができるのか。たとえ人口が量的に減っても、能動的・主体的に複数の場で社会に関わる人、つまり関係人口が今より増える。そんな人口の”質的変換”がなされれば、社会は今より活力を増すことだって十分ありえるはずだ。

日本は世界に先駆けて、人類史上稀に見る人口減社会に突入した。明治維新以降、欧米の背中を追いかけながら見事な近代化を遂げ、アジアのお手本として経済を牽引してきた日本。しかし、もはやその先には誰もいない。逆に世界が今、日本の背中を見ている。私たちは、何を伝えるのか。人口減社会における課題解決先進国として、世界にその背中を見せていくべきだろう。

初めて街頭演説に立ったあの日から

「絶望のど真ん中に、希望がある」。戦争下を生き抜いたジャーナリスト・むのたけじさんは、この言葉を残して数年前に亡くなった。絶望から目を背ければ、希望にたどり着くことはできない。絶望するからこそ、希望を生み出すしかなくなるのである。

東京で挫折し、地元に帰ったのは29歳のとき。県議会議員を目指し、すぐに路上で街頭演説を始めた。雨の日も雪の日も毎日に立ち続け、声を枯らした。得体の知れない若者の声に、耳を傾ける人など1人もいなかった。政治家を辞めたのは、震災の後だった。漁師の手伝いを始め、「生産者と消費者をつなげる」と誰もいない場所に旗を掲げた。

「経済成長に依存しない社会をつくるべきだ」。初めて街頭演説に立ったあの日から、私が世の中に訴えてきたことは何ひとつ変わらない。でも、見える景色は随分と変わった。高く掲げた旗の下には今、たくさんの仲間がいる。今も日々、逆風にさらされているが、これまでの積み重ねがあるから、この先も続けていけばもっと仲間が増えるはず。そう思えるのだ。

震災後、こんなにも「世の中はこうあるべきだ」とキレイごとや正論を言い続けてきた人はいないと思う。そんな私が道半ばで倒れたら、「やっぱりキレイごとじゃ飯は食えない」ことを証明して終わってしまうことになる。だから、倒れるわけにいかない。もしかしたら、私の目が黒いうちには変わらないかもしれない。しかし、後に続いてくる世代が、あるいはその次の世代が変えてくれるはずだ。そうやって世代をつないでいった先に、私が思い描く社会が待ち受けていることだろう。