震災以降立ち上がった東北の団体のリーダーの元に、若手経営人材「右腕」を3年間で約200人派遣してきた「右腕派遣プログラム」。「右腕」を受け入れる東北のリーダーのインタビューを紹介します。
真っ赤なカラダにねじり鉢巻を巻いた姿がとてもかわいい、タコのゆるキャラ「オクトパス君」。オクトパス君を生み出し、精力的に活動されているのが阿部忠義さんです。震災の直後は、とても「ゆるキャラ」を発信できる空気ではなかったという阿部さん。悩み、葛藤しながらも、チャレンジに踏み切ったプロセスから見えてきたものとは?活動の拠点にされている「入谷YES工房」でお話を伺いました。【南三陸復興ダコの会・リーダー・阿部忠義さん】
—前回、阿部さんにお話を伺ったのは、地震が起きて半年ぐらいのときでした。それから1年以上が経って、さまざまなことがあったと思うのですが、いかがでしょうか。
あいかわらず、全国のみなさんにお世話になったという感謝の気持ちが原動力になっている。その点は変わらないんですよ。この工房のスタッフとも共感しているんだけど。
—前回のインタビューでは、オクトパス君の文鎮が1万個売れたというお話がありました。それが今では6万個が売れて、オクトパス君はいわゆる「ゆるキャラ」にもなったのですね。それは当初から構想を描いていたのですか。
前回のインタビューの頃は、いずれは、ゆるキャラで行くっていうイメージはあったと思います。でも、着ぐるみを新しく作るにしても、何をするにしても、原資が必要なわけで、それにはきちんとした裏付けがないとできないわけです。だからイメージはあったけれど、公表はしなかった。それに躊躇していたというか、全国からの応援もあってオクトパス君の文鎮が売れているのに、そのイメージを変えることによって裏切り行為になるんじゃないかとか、この工房がいまこんな状況なのに、ゆるキャラだなんてちょっとふざけた感じでやっていいのかな?とか、そういうのをリアルに感じていたので。マスコミさんにも応援してもらっていましたから、まだ悲壮感が漂っている中で、私がテレビに映ってゆるキャラだなんだって言ってはしゃいでいていいのだろうか、ってつねに客観的に見ていましたね。
—客観的に。
でも、まわりからは私が暴走しているというか、そんなふうに見られていた時期もあって。暴走する私を誰も止められない、みたいな。今ではみんなからもたぶん理解してもらっていると思うんですけど。
—南三陸という名前を売っていくこと、それから事業として継続させていくことが大事で、でも、周囲への見え方も大事で、そこがバッティングしてしまうというか、難しいですよね。
ええ。私はトップでもなんでもないんです。ただ、仕掛ける人間だとすると、私がブレたら誰もついてきてくれないですから。
—骨抜きになってしまってはいけない。
そうです。よくも悪くも 「これで行くんだ」と明確に示して、それを理解してもらって、ついてきてもらう、がんばってもらう、ということだと思うんですよね。当時は状況が状況だったから、工房ではみんなが生き生きとできる、人が生かされる環境を保ちたいと思いつつ、でも、先のことを考えると、やっぱり伸びていかなければならないわけで、自分の中でも葛藤はあったんですよ。いろいろ展開することで、いろいろな人を巻き込んで、大きくなればなるほど責任という重みも出てくる。でも一方で、工房を始めた当初は、前回のインタビューでも「つなぎ産業」って言っていたとおり、ほどよいところで着地点を探すというか、任務を終えるつもりでいたんですよ。ところが、もしかすると、新しい産業というか、今後も持続できるんじゃないかなっていう可能性や手応えを感じたから、そこでもうモードを一気に切り替えたんですよね。
—確かに、オクトパス君の文鎮で大きな雇用を作るというのは中長期的には難しいのではないかって思いますよね。それがちゃんと事業として成立する予感みたいなものが生まれていったんですね。どういう感じだったんでしょうか。これは行ける、と思ったときは。
震災直後ぐらいに、この路線だなっていうのはちょっと見え隠れしていたんですよ、ゆるキャラだっていうのは。だけれども、それをやるタイミングではなかったですよね、やっぱり。ここのスタッフも、世の中的にも。でも、ちょっと試しに悪ふざけをしたら意外と許せるかも…っていう感じだった。それで思い切って財源も確保して、「やるぞ!」って言いました。みんなは「えー!」ってひいていましたけどね、その頃は。
—ひいていた。
今こうやってせっかく純粋な気持ちで応援してくれる人たちがいるのに、裏切ることになるんじゃないかと。そう感じる人たちもいるわけですよ。実際、自分自身もそう思っていましたから。でも、その葛藤の中で、一定のテストをして、チャレンジをしてみて、行けそうだと思ったからぐっと進めたわけです。
—ちょっと出してみたときに苦情みたいなものは意外と少なかった?
なかったですね。むしろ、こんな大変な時期なのに明るくやろうとしている、活気があって非常に励まされる、っていう言葉が多かった。ここに来てくれた人たちは、励ましに来たのに、逆に元気づけられるってよく言われました。そういうことがあったので、これはもしかすると行けるのかなと思いました。それに、そういう動きって、やってみることによって、初めて「あ、ここまでやっていいんだな」っていう限界を知るというか。まわりのみんなも私たちのやることをまねして色々なことをやって、明るく元気にしていけばいいな、みんなのヒントになればいいなというのもありました。
—様子を見ながら、一歩ずつやって来られたのですね。
やっぱり、ここでやっていることって人気商売ですから、世間に愛されないとダメなんですよ。ゆるキャラなんかは特に。でも、だからといって批判をおそれて無難にやろうとすると、事業や取り組みそのものが小さくなっていきます。
—埋もれますよね。有象無象がひしめくゆるキャラ業界では。
経済もそうですよね。行政もそうだと思うんですけど、地域づくりというのは、無難に無難に世の中の批判を買わないようにってやっていったら、どんどん地域も行政も街も小さくなっていってしまいますから。言ったことはどんどんチャレンジしていくということを続けなければいけない、と思います。
—そうですよね。
今では、キャラクター商品を充実させて、アイテムを増やしていって、ノベルティーなんかも手がけるようになりました。考えてみれば、キャラクターグッズも、ノベルティーも、コミュニケーションをはかる道具だなと。それによってみんなが元気になるなら、いい事業だよねっていう方向転換をしました。それまでは私の感覚でやっていたから、いろいろなことをやったけれども、どれも私の思いつきでやっている事業体なのかな、って思っていました。うまく言葉にできなかったところがあったから。
—分かります。
それが、自分たちがやっていることはコミュニケーションをはかることなんだと気がついた。そもそも、なぜコミュニケーションなんだろうということを考えると、震災によって定住人口が急速に減少しているんですね。このままの勢いだと震災前の半分の人口になってしまうのも目前です。でも、定住人口を補う政策ってなかなか難しい。高台移転も遅れているし、人を引き止める魅力がないんです、今、地域には。
—仕事もなくなったりとか。
ええ。出て行くのはやむを得ないし、出て行く人も苦渋の選択で出て行くわけで。それを補うのは交流型産業しかないと思うんですよ。もっとコミュニケーション能力を高めないと、来てくれる人の数も増えない。もともと、私は、この地域は自然も食材も豊かだし、いろいろな楽しみごともあるけれども、それをうまく外に伝えていかないと経済的には厳しいんじゃないかなと思っていました。だから、工房でやっていることって、その考え方に沿っているよなと自分に言い聞かせるようになっていたんですよ。
—やってきたことを振り返ってみると、根っこは一緒だったと。
そうそう。だから、「ほら、コミュニケーションをかわすための一つの道具になるよね」って。「その道具をつくる工房なんだよ」って。ゆるキャラグッズやノベルティグッズが世に配布されることによって、地域が元気になる、社会が元気になる、日本が元気になるっていう、そういう役割をこの工房で持てたらいいね、という目標値を見い出したんですよ。それ以来、「南三陸発のコミュニケーションツールで社会を元気にしたい」が、この工房のテーマになりました。
■続き:南三陸発ゆるキャラ、事業化までの歩みをたずねて(2)
聞き手:中村健太(みちのく仕事編集長)/文:鈴木賢彦(ボランティアライター)
記事提供:みちのく仕事(NPO法人ETIC.)
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