津波で町の8割の建物が被災、総務省が2014年6月に発表した統計では人口減少率6.54%と全国一高かった宮城県女川町で、町全体を再デザインする復興事業が進んでいる。
千年に一度といわれる津波の被害に遭い、更地になった土地に新たな町を作る。それは、建物の再建や区画整理といったハード面での大規模事業であるとともに、地域が将来にわたってどのようにありたいか、というビジョンを、町という形に表現する取組みでもある。全国でも類を見ない規模の事業の計画とビジョンを追った。
「海とともに生きる」を具現化した町がまもなく誕生
女川町震災復興まちづくり事業では、土地利用の基本的な方向として、居住地は今回の津波と同等の津波にも浸水しない高さの土地に集約し、低地は産業用地として商業、水産加工業、漁業に活用する、と明確に分けている(図1)。女川町は、東日本大震災で死者・行方不明者827名という人口比最大の人的被害を出しているが、復興計画において防潮堤を作らないことをいち早く決定した。海に囲まれた町で海とともに生きてきた町民は、海が見えなくなることを選ばず、その代わりに、津波が来ても逃げられる、建物は失っても人命は失わない町を作ることを決めた。現在、女川町の各所では山を切り開いて宅地を整備し、その土で低地を嵩上げする工事が行われている。
一方、JR女川駅を中心とする低層の産業地の整備事業も着々と進んでおり、2015年3月にJR女川駅が開業するのを皮切りに、新施設が次々とオープンする(表1、図2)。建築界のノーベル賞と言われるプリツカー賞を受賞した坂茂氏の設計による新女川駅は、羽を広げたウミネコをイメージしたデザイン。温泉施設と展望施設を備えており、女川観光の拠点となる。新設される漁業体験施設は、津波で流された旧女川駅のデザインを生かして建設される。
住民と来訪者がともに集う 海を生かしたソフトを取り込む中心市街地
新たな女川の町のにぎわいを創出するとともに、町内の事業再生という点でも注目されるのが、女川駅から海に向かって延びるテナント型商店街だ。2014年11月時点で、飲食店、日用品店など25事業者の参画が決定している。ワークショップやイベントが開催できるスペースも設けられ、住民の集う場、来町者を呼び込む場としても活用される。震災前に10,014人だった女川町の人口は、7,197人(2014年10月31日時点)にまで減少した。商店街を含む中心市街地の開発、運営を担うまちづくり会社、女川みらい創造株式会社専務の近江弘一さんは、新たな町のビジョンをこう語る。「直近で定住人口が増えることはないだろうという前提で、人口の新陳代謝ができる町を作りたい。団塊世代の二地域居住、3年間住む若者を生む全寮制高校の設置など、永住ではなくても数年間町に居住する人が生まれる仕組みを作り、人が入れ替わりながら循環することを目指す。その延長線上に定住人口の増加が見えてくるはず。そのために、女川で過ごす時間、女川で体験できることの価値を形にして見せていきたい」。
その軸となるのは、震災前から女川が持っていたもので、これからも女川が持てるもの、だという。女川のまちづくりは海の存在を最大限に生かすことを基本としており、町内各所に海が見える眺望点が設定される。「獲る、調理する、食べる」の一連が体感できる漁業体験施設の開設も、海を生かしたまちづくりを具現化したものだ。商店街にも海鮮を提供する飲食店や鮮魚店など、女川の海の恵みを味わえる店舗の入居が予定されているほか、物産センターには津波被害に遭い現在は仮設店舗での営業を続けている「マリンパル女川おさかな市場」が新しい形で移転することになる。
2015年3月、女川駅の開業に合わせて、不通となっていたJR石巻線の浦宿~女川間が開通する。同年6月までには陸前小野~高城町間が復旧しJR仙石線が全線開通する予定で、仙台から女川への交通アクセスが格段に向上する。駅周辺にコンパクトに魅力が詰まった中心市街地は、旅行者にとって利便性が高く、来町者の増加が見込まれるだろう。そこから長期滞在者を生むことができるかどうかは、訪れた人の期待を上回る体験・価値を提供できるかに懸かっている。
「60代は口を出さず、50代は手を出さずに支援する」次世代が中心となったまちづくり
被害の大きかった市町村の中でも群を抜いてスピードの速いまちづくりは、どのように実現へ向かったのだろうか。
近江さんによれば、女川町の復興計画が進んだ理由は「防潮堤は作らないと意思決定したこと、みんなが町の復興を願っている時期にいち早く土地の権利を放棄させ区画整理を進めたこと、継続的に話し合う場が設けられていること」の3点だという。
特にポイントとなるのは「話し合う場」だ。「女川町復興まちづくりデザイン会議」が設けられ、2014年10月までに15回開催されている。有識者とともに町長から住民までが参加して、町のゾーニングからシンボルとなる建造物のデザインまで、町全体の方向性を話し合っている。女川のまちづくりには小中学生も参加し、30代、40代が中心となって動き、町の年長者から、「60代は口を出さず、50代は口を出してもいいけど手は出さず」と言われた上の世代が支えているのが特徴だ。震災後の2012年に初当選した須田善明町長も42歳と、まちづくりの中心になっている人々と同世代だ。
現在56歳の近江さんは言う。「まちが作り上げられるのにあと5年かかる。継続的に人を呼び“株式会社女川町”を事業として成立させるのは、それからが本当のスタートライン。だから、持続可能な町の仕組みを作り次世代に引き継いでいくことが自分たちの世代の役目。女川は津波で壊滅的な被害を受け、人口減少率も全国で一番高い。その女川で持続可能なまちづくりができるなら、全国どこででもできるという事例になるでしょう」。
平成の大合併でも独立の道を選び、町民のアイデンティティの強い女川町。女川ならではのまちづくりのビジョンを携え、津波の被害から再び立ち上がろうとしている。
文/畔柳理恵
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