震災以降立ち上がった東北の団体のリーダーの元に、若手経営人材「右腕」を3年間で約200人派遣してきた「右腕派遣プログラム」。東北で活躍する「右腕」とリーダーのインタビューを紹介します。
福島第一原発20km圏内である南相馬市小高区。そこ小高区で、2014年5月に避難区域初となるシェアオフィス「小高ワーカーズベース」を立ち上げたのが、和田智行さん。ここで食堂の立ち上げや織物の事業化を進め、帰還する人の受け皿を作ろうとしている和田さんに、お話を伺いました。【小高ワーカーズベース・和田智行さん】
―震災当時にどんなことをしていたかと、それからプロジェクトを立ち上げるまでの経緯を教えてください。
震災前は、東京に会社を置いて、自分だけ南相馬にUターンして、システムエンジニアとして遠隔で仕事をしていました。震災が起きて、原発が爆発して、避難することになったのですけれども、避難先五カ所を家族と共に点々として、2012年の4月に会津若松に落ち着きました。
―それからワーカーズベースを立ち上げるまでの2年はどんなことをしていたのですか?
会津若松に移ってからも、しばらくはシステムエンジニアの仕事を、小高でやっていたように遠隔でやっていました。一方で、小高の状況も気になっていました。4月に区域が再編されて自由に立ち入れるようになったので、時々行って、自分の家を片付けたり、いろんな方が入るようになったのでアテンドを依頼されて対応したり、そういうことを始めていました。
システムエンジニアの仕事が東京の仕事だったのですが、一生懸命やっていても、自分の状況改善につながらないというもどかしさがあって。「今やってる時間があるのか」という葛藤がだんだんでてきて。2012年の12月いっぱいで役員だった仕事を二つともやめたんです。当てがあって辞めたわけじゃないのですが、何かやんなきゃいけないと思ったんですよね。
>p>そうこうしているうちに、浪江に入っていた県庁の玉川さんに、会津若松のインキュベーションセンターの館長さんに会ってみないかと言われました。そこで起業者支援という仕事があることを知って、インキュベーションセンターに常駐することになり、入居している起業者さんといろんな起業者支援の見習いみたいなことをやっていたんですね。そうしているうちに、「こういう機能が小高にあれば、いいんじゃないか」と漠然と思い始めてきて。
―それが、ワーカーズベースを立ち上げるきっかけになったんですね。
そうですね。区域再編されて2年以上経って、ハード的なインフラはある程度復旧して進んでいる一方で、事業の再開や住民の帰還に関しては、あまり動きが見られない。このまま何も手を打たないと、避難指示解除しても人が暮らせるようにならないという思いがありました。なんとかしなきゃと。
僕自身、戻って暮らすといっても、子どももいますし、家族に対して責任があるので、「何が必要かな」と考えたときに、まずは物理的な働く環境だなと思いました。20キロ圏内で電源やWifi、コピー機を揃えて、小高で何かしようと思った人の受け皿になろうと思いましたね。最初に明確な、あれをやるこれをやるというビジョンはなかったのですけれども、僕は受け皿を作って、その上で腰を据えて、きちんと現場の課題に取り組んでいくという考えでした。
今は、小高自体は三つの区域に分かれていて、まず1つが避難指示解除準備区域で、これが年間の被曝量が20ミリシーベルト以下。もう1つが居住制限区域で、年間被曝量が年間50ミリシーベルト以下です。もう1つは一世帯だけなのですが、帰還困難区域になっています。先の二つの区域には24時間自由に立ち入りはできるのですけども、居住してはいけない、寝泊まりしてはいけないという状況です。ただし仕事はやってもいいので、宿泊業以外の仕事であれば、再開して帰還に向けた準備を始めましょうという状態になっている地域です。
―小高の中心部は、避難指示解除準備区域がほとんどですね、空間線量でどれくらいですか?
だいたい0.2から0.3マイクロシーベルト/時間ですね。
―東京でも、0.1とか0.05くらいなので、みなさんが想像するほどは高くないですよね。
そうですね、年間にすれば、大体、震災前の基準だった一ミリシーベルト以下に収まる場所かなぁと。同じ20キロの中でも、低いところと高いところがグラデーションがあって、高いところは高いのですけれども、低いところは、気にするようなレベルではないと思っています。これは人それぞれですけどね。
プロジェクトを始めて、今まで接する機会がなかったような人と接する機会を得られるようになったのですけど、いろんな社会課題に取り組んでいる方とか、一部上場の企業の方とか、問題解決する力のある人でも、「すごく難しい地域」だとみんな口を揃えます。関わりにくさがあるとはすごく感じています。その関わりにくさをどうにかクリアしていかなきゃいけないと考えているところです。
―具体的に小高ワーカーズベースでやろうとしていることはなんですか?
2つありまして、1つは食堂です。小高には食べるところがないので、住民の方が、家の片付けや仕事に従事するにしても、外からお弁当を持って持ち込んだりしています。まず食堂を作って、そこでお弁当ではない、温かい食べ物を提供して、住民が集まってコミュニティが再生されていくような場作りをしていきたいです。厨房に立つのは地元の住民の方にしようと考えています。
あとは、これから帰還を検討している他の飲食関係の事業者さんや、商店さんにとっては、自分一人で立ち上げるのは大変で、ハードルが高いですが、すでにスタートした食堂を準備の場所として、期間限定で自分の商品やメニューを出したり利用してもらうことで、帰還を考えている事業者さんの後押しができればいいなと考えています。
―もう1つは?
養蚕と織物の事業化です。市のアンケートによると、戻ってくる住民が大体60代以上ということが見えてきたので、そういった方たちに帰還後に手仕事を通して収入と生き甲斐を持ってもらうことを目指して、かつて小高で盛んだった養蚕と織物を事業化することを、地元のNPOと共に進めています。
もともと活動の主体は、「浮船の里」という地元のお母さんたちが立ち上げたNPOです。最初は小高に住民の集まる場所を作ろうというところからスタートし、話し合いの場を設けてきました。その話し合いの中で、お母さんたちが何かやろうという気持ちになってきて、農作物は口に入るものなのでしばらくは厳しいだろうから、「昔養蚕やってたよね」「機織りやってたよね」というところに気づいて、これだったら可能性あるんじゃないかとプロジェクトが始まりました。
―街としてのいろんな機能が失われて、0から立ち上げていく中で、まずは仕事からつくっていく。
住民と事業者それぞれに「戻らないの?」と訊くと、事業者は「住民がいないと商売にならないし、働く人がいなければ仕事回せないでしょ」と言い、住民は「お店開いてなければ生活できないでしょ」「職場が再開してくれないと」ということを言います。どちらももっともな話なのですが、かといって、どちらかから変えないと、帰還のサイクルが回りださないなと思っています。僕は仕事を作る方が先で、仕事ができて、そこで経済活動が始まることで、人の出入りが生まれますし、それによって、住民も小高に立ち寄るようになると思っています。
―今のところ感じている手応えは?
プレイヤーがほぼいないので、旗を挙げたこと自体に反響があります。そこに共感して、「自分も、一度捨ててしまった家業をふるさとで取り戻したいんだ」という幼なじみも出てきたりしています。どこに共感してもらったのかなと考えたときに、ふるさとへの思いなどもあるとは思うのですけれど、それ以上に、こんな状況の中にも、もう一回何か新しいことをやるチャンスがあるんだと感じてもらったからだと思っています。
この話や募集要項だけを読んで、現場の状況を理解できる人はいないと思うのですけれど、しっかりと理解しようという姿勢を持って、その上で、丁寧に住民と向き合いながら、事業にあたることができる方に来てほしいと思います。あとは、小高で活動する意義というのは、ハードルが高いところがひとつあるので、ハードルの高さを逆に楽しめるような方に来ていただけると非常に面白いフィールドになるんじゃないかなと思います。
日本という先進国で、ゴーストタウンができるということは、この先あってはならないことだと思うので、逆にそういう状況のなかで、チャレンジできるのは今しかないです。日本で住民ゼロの中から町づくりをしていくという、そこに面白みとか意義を感じて、自分なりのやりがいや目的とリンクするところを見いだして取り組んでくれる人に来ていただきたいと思います。
聞き手:ETIC.スタッフ/書き手:馬場加奈子
記事提供:みちのく仕事(NPO法人ETIC.)