東北での出会いと経験がビジネスマンとして、人として幅を広げた[日本財団 WORK FOR 東北]

「WORK FOR 東北」は、被災地の自治体等への民間企業による社員派遣、個人による就業を支援し、人材の面から復興を後押しするプロジェクトです。
復興の現場に社員を派遣している企業、および、赴任した方々のインタビューを紹介します。

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東北での1年間を経て、東京で新しいキャリアを歩み始めた方にお話をお聞きしました。

Q:復興支援に携わるきっかけと前職の業務内容を教えてください。
A:以前は入社以来ソニーでテレビ事業の経営企画を担当していて、2009年からはロンドンに赴任し、経営企画とサプライチェーン改革の業務にも携わっていました。震災が起こったときも在英だったため、家族や知人・友人が目の当たりにしたことを自分だけ経験していないことに歯がゆさを感じていました。日本を離れているために、したいけれどできなかったことの筆頭が復興支援です。2012年の4月に帰国して一般社団法人RCF復興支援チーム(以下RCF)の採用説明会が開かれることを知って参加してみたのが、東北に関わり始めたきっかけです。

釜石を代表する祭り「釜石よいさ」実行委員会のメンバーと

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Q:釜石で担当された業務について教えてください。
A:私の役割は、RCFのコミュニティ形成支援プロジェクトにおいて復興コーディネーターを務めることでした。復興コーディネーターとは、釜石の復興を目指して尽力される地元の方をサポートする存在です。着任した2012年7月から最初の3カ月は、市の南部に位置する唐丹(とうに)地区で、あらゆる地元の方の活動についてお手伝いをしました。例えば、唐丹中学校の駅伝のコーチを努めたり、行政や住民、NPOなど、地域のステークホルダー間のコミュニケーションが円滑になるように、まずは議事録担当として会議に入ったりしました。
もちろん最初から信頼してもらえたわけではありませんでした。「『いいことをしたい』とだけ言う人間に、いい奴はいない。お前は何をしに来たんだ?」などと言われたこともありましたが、そのようなご意見も含めて地元の方の生の声として理解しました。そのように接点一つ一つを大事にし、唐丹地区のニーズを丁寧に引き出し、少しずつ信頼していただくことができました。

次の半年は、唐丹で行ってきたことを他地域でも展開するための活動でした。主に、鵜住居地区の方や箱崎地区にて同様のことを行いました。結果として地域の一部の方に認めていただき、復興を支援する「釜石リージョナルコーディネーター」(通称:釜援隊)結成のきっかけになりました。これは復興や地域振興に意欲のある方を公募して、市の委託で活動いただく制度です。

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Q:それまでのビジネスの経験は役に立ちましたか?
A:前職の経営企画の仕事では、工場、営業、設計という現場に対して、厳しいコスト削減やスケジュールなど、嫌がられることも言わないといけない立場にありました。「現場の事情を知らないくせに」と言われないよう、いかに現場の社員と同じ目線に立てるかがポイントだったんです。その点で、復興現場の活動も思いのほか前職と通じるところがありました。
とはいえ、釜石での仕事は成果が数字で見えにくい点は大きく違いましたし、コーディネーターが前面に出て活躍しすぎないように気をつけていました。地域の自発性を大事にして、「やるぞ!」ではなく、「やりましょう!」という姿勢を貫いていました。

Q:復興支援ではコミュニティの再建が大きなテーマだと思いますが、釜石ではどんな工夫をしていましたか?
A:よくコミュニティをつくろうとして、何となくみんなが集まる場をつくったりしますが、そこでゆるやかなつながりがいくら生まれても、コミュニティとしては強くならないことに気づきました。強いコミュニティには、個人同士が強いつながりを持っていないとダメなんです。つまり、1対1の関係がいくつあるかが大切です。具体的に、しばらく離れ離れになってしまった人同士を再会させたり、ある事情で行き違いが生まれてしまった人の間を取り持ったりすることで化学反応が起こります。
東北のような地方は、しがらみが多くて、人間関係に気遣いが必要なことは確かです。そのために、狭い地域でいがみ合ってしまうこともある。戦う「敵」が近すぎると疲弊するし、大きな課題に取り組む意欲が削がれてしまいがちです。だからこそ、外部の人間がコーディネーターとして入って、少し大きなフレームのソトの視点を持ち込むことが有効です。

Q:現在の仕事に、釜石での経験はどのように生かされていますか?
A:釜石での1年は本当に濃密な時間でした。いままで出会ったことのないような人に出会えたのがいちばんよかったです。行政やまちづくり協議会、森林組合、お母さんたちのグループなど、あらゆるプレイヤーに出会えました。現在は転職して色々な業界の方と働く仕事をしていますが、釜石での経験のおかげで、どんなビジネスを行うにしても、想像力の幅が広がったと思います。
たとえば、ある仮設住宅のおばあちゃんたちは、毎日朝と午後に2回ずつラジオ体操をしているためか、とても元気です。病院に通うお金を浮かせて旅行に行くんだと言って、実現させています。「次はハワイへ行こう!」と張り切っています。専門家の食事指導なんかより、仲間と楽しくて健康にもいい習慣をつくるほうが効果的なんですね。現職で健康づくりに関する新規ビジネスを検討しているんですが、おばあちゃんたちの様子がヒントになっています。
さらに言えば、以前より本質的なものの見方ができるようになりました。復旧から復興へというプロセスの中で、どういうまちにしたいかという議論をさんざんするわけですが、その過程で、どんなまちに住むのが幸せか?そもそも幸せって何だろう?と、より本質的なことを考えるクセがついたのだと思います。企業経営しか考えなかったころより、ずっと視野が広がりました。

山口さんが釜石を離れる日、別れを惜しんで大勢の人が見送りに駆けつけた

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Q:キャリアプランにおける今後の抱負を聞かせてください。
A:あらゆる分野の方との接点をもちながら新しい価値を生み出していく、「コーディネーター的な活動」を続けていきます。価値が生まれるためには、自分の常識を疑い覆されていくことが欠かせないということを復興現場の地元の方々から学びました。よくもまあ外の人の生意気な意見を聞き入れていただいたと思います。
例えば日本社会にとってのよそ者とは外国人だと思います。国内外の区別をせずに広い視野で新しい価値を生み出していけるよう努力をしていく所存です。


(2014年7月17日取材)

記事提供:日本財団「WORK FOR 東北」