震災直後の被災者支援、復興計画における政策決定、事業者や生活者の再建支援など、復興の現場では様々な場面で弁護士が関わっています。現地での支援や後方支援に当たった法律の専門家から見た復興と法律に関するコラムを、現役弁護士がリレー形式で書き下ろします。
今回の執筆者は、岩手県宮古市の「宮古ひまわり基金法律事務所」所長として勤務中に自らも被災し、最前線で法律面からの復興支援に携わった、小口幸人弁護士です。
2011年3月11日、法律事務所で談笑していたときに経験したことのない揺れを感じました。職員は机の下に潜り、私はパソコンのディスプレイが倒れないよう必死に押さえていました。揺れはいつまでも続きました。午後2時46分のことです。
私は震災発生当時、「宮古ひまわり基金法律事務所」に勤務しており、岩手県宮古市にいました。東日本大震災の被災地の一つです。発生時被災地にいた私の活動をとおして、震災直後の弁護士の活動を報告します。
震災直後、警察や消防はもちろん、行政の職員も福祉の職員も駆けずり回っていました。安否を確認するためです。弁護士であった私は、いつも彼らから「先生」と呼ばれていながら肝心のときに役に立てませんでした。震災当日、避難所となっていた合同庁舎で毛布にくるまりながら聴いたラジオの「●●町壊滅」という言葉が、いまも耳に残っています。
私は現在弁護士をしていますが、以前は一部上場の電機メーカーで営業の仕事をしていました。25歳のとき、社会のため人の役に立ちたいと思い脱サラし、医者になろうか弁護士になろうか悩んで弁護士になりました。震災直後の私は、医者を選ばず弁護士になったことを後悔していました。医者なら役に立てたのに、そんな想いです。1000年に一度のこの場面で役に立てないなら存在意義さえないと考えていました。電気が回復した3月14日の夕方までの間に私にできたことは、事務所の片付けと事務職員やその家族の支援だけでした 。
弁護士だからこそできること
3月14日の夕方電気が回復し、電池の減りを気にすることなく携帯電話を使えるようになりました。早速情報収集を始め、被災者の希望になり得る被災者生活再建支援法という法律の存在を知りました。この法律の存在を知ったことで、弁護士の私にも、私にしかできることがあると感じました。14日の夜、知り合いの弁護士から、阪神大震災のときに被災者支援に携わった弁護士が情報交換のために災害弁護士メーリングリスト(以下「災弁ML」)を立ち上げたという情報が入りました。藁にも縋る思いで被災者支援の第一人者である津久井進弁護士に一通のメールを送り、災弁MLへの登録を求めました。「宮古ひまわりの小口と申します。被災地にいます。情報と知識を求めています」
3月15日、災弁MLには次々と情報が寄せられました。阪神・淡路大震災を経験された先生方が寄せて下さる情報は、私にとって希望でした。他方で弁護士の私でさえ知らなかった災害関連の法律や制度を、市や町の職員が知っていることはないだろう、ということも思い浮かびました。3月15日、まずはこの情報をフル活用するため、私は携帯電話販売店に足を運びました。頭を下げてデータ通信用のデモ機を借り、災弁MLに寄せられる被災者支援に関する資料を印刷しました。
困っているであろう市役所に持参するため資料のコピー等を事務職員に頼んだところ、事務職員が「先生、これを避難所のみんなに見せていいですか」と尋ねてきました。この事務職員は当時避難所に出入りしていました。彼女に詳しく話を聞くと、避難所の中にはすでに部屋を借りたり親戚の家に避難することを考えている人がそれなりにいること、避難所を出ると支援の網から漏れるのではないかと考え避難所にいる人もいること、どんな支援があるのかないのかもわからないので不安を感じている人がいることを教えてくれました。被災者を支援する制度を伝えることそれ自体が被災者の希望になる、これを丁寧に正しく伝えるのが私の仕事だと確信しました。
印刷を終えた資料をもち、宮古市役所を尋ねたところ、「先生いいところに来た」と言って呼び止められ危機管理課に連れて行かれました。案の定市役所の職員達は災害時の法律の対応に苦慮しており、そこでいくつかの質問を受けました(次回以降、行政への支援で詳しく報告します)。自分で法律の条文と向き合い、また携帯電話で東京の知り合いの弁護士に調査を依頼し、次々と対応したのを覚えています 。
震災から1週間、全国初の避難所相談を開始
3月16日、毎朝行っていた弁護士会の電話会議で、避難所で相談を開催することを提案しました。しかしこの提案は受け入れられませんでした。当時のテレビや新聞は、避難所には水や物資が足りない、避難所には行方不明の家族を捜している被災者や、亡くなった家族を偲んでいる遺族がいるという情報で溢れていました。そんなところで相談会をするのは不謹慎だし、時期尚早だという理由でした。
私も同じ様な報道ばかりテレビで目にしていたので、反対の理由はよくわかりました。他方で、私はテレビに映っているのとは異なる避難所の現実を見聞きしていたので、反対の理由もわかりますが全く時期尚早ではないので実施します、と言い反対を押し切って避難所相談を始めることにしました。
多くの被災者支援制度の窓口は市役所になっていたところ、当時の宮古市役所の窓口はまだ混乱状態にありました。避難所相談を実施したことによりさらに窓口が混乱するのを避けるために、私は2つのことを実践しました。1つは、避難所相談を始めるのを18日に決め、それに先立つ16日のうちに支援制度の窓口になっている全機関に足を運び制度の存在と制度の中身、そして18日以降被災者から問合せが来ることを説明して回り対応を求めました。2つめにしたのは、実際に避難所で制度を紹介するときに「いますぐ行っても窓口は十分な対応をとれないし混んでいる。支援制度は逃げやしないし、お金が支払われるのも少し先になるので、窓口にはなるべく4月になってから行くように」と相談者に伝えることでした。
3月17日には、最初に避難所相談を実施しようと目星を付けていた宮古市立河南中学校に赴き、同中学校の建物管理者である校長先生と、避難所の運営管理者である市の職員と交渉し、承諾を得た上で被災者に告知をしました。「いつもお世話になっています。陸中ビルのところにある宮古ひまわりの弁護士の小口です。明日の夜無料の相談会をするので、何でも聞いて下さい。少しでもみなさんの力になりたいと思います。」と。
3月18日の昼間は、翌19日に避難所相談を実施するため、どちらも避難所になっていた宮古市立鍬ヶ崎小学校と浄土ヶ浜パークホテルに足を運んで、同様に交渉と告知をしました。浄土ヶ浜パークホテルでは、自分で館内放送を使って告知したことを覚えています。
3月18日18時、私は河南中学校の避難所に赴き、再度告知をして体育館脇の進路指導室に座り相談者を待ちました。ほどなくして高齢のおばあちゃんが相談に来て、廊下には相談待ちの列ができました。3時間で6件の相談に対応しました。これが、東日本大震災後、全国で初めて行われた弁護士による避難所相談でした。困っている人の役に立てた高揚感を胸に私は帰路につきました。
家に戻り、携帯電話を取り出し、災弁MLに相談会を実施したこと、相談が多数寄せられたこと、そしてその内容を具体的に報告しました。弁護士にもできることがある、我々弁護士は今すぐにでも避難所に行くべきだという想いを込めて。
3月19日、避難所になっていたさいたまスーパーアリーナでも弁護士による避難所相談が行われ、弁護士による避難所相談の輪は全国に広がっていきました。全国各地で相談活動が行われるようになり、遠方の弁護士も避難所のある地に駆けつけました。その後、相談活動は避難所から仮設住宅、仮設住宅から市町村役場や相談センターへと移りましたが、相談件数は増え続けており、その数はすでに4万件を超えています。
文/小口幸人 桜丘法律事務所・元宮古ひまわり基金法律事務所所長
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