震災以降立ち上がった東北の団体のリーダーの元に、若手経営人材「右腕」を3年間で約200人派遣してきた「右腕派遣プログラム」。東北で活躍する「右腕」とリーダーのインタビューを紹介します。
福島県相馬市で延べ4万人以上の市民が参加している、炊き出し・食品販売・催し物を開催する朝市を震災後から継続的に運営してきた「相馬はらがま朝市クラブ」。その取り組みを母体として、新たな産業の創出をサポートする「復興支援センターMIRAI」が、今年8月に立ち上がりました。今回は、相馬はらがま朝市クラブ理事長の高橋永真さんと、相馬はらがま朝市クラブの理事であり、復興支援センターMIRAI所長である押田一秀さんにお話を伺いました。【復興支援センターMIRAI(相馬市)・高橋永真さん/押田一秀さん】
-もともと震災前は、永真さんはどんなことをやってらっしゃったんですか。
髙橋:浜の男でね。もともと相馬高校に行ったけれど、家出して東京の池袋に出て、住所不定で遊んだりアルバイトしたりしてて。そしたらこっちで起業した先輩がいたので、相馬に帰ってきて、親戚に誘われて22~23歳のときに水産加工の道に入った。年間50億円位の売上があって、もう寝ないで働いていたよ。中国貿易とか北朝鮮貿易とかもやってたけど、バブル終わってこけちゃってね。で、25年働いて、独立して「センシン食品」という水産加工会社を作ったんだよね。お客様も、「おめえがやるんだったら応援するぞ」って人が多かった。資本金もなくて結構苦労したんだけど、なんとかお金に余裕ができて新しい工場買うかって矢先だったねえ、震災。息子も専門を卒業して俺の仕事を手伝うと言っていたところだった。
-工場は、港のすぐそばでしたよね。
髙橋:そう。ちょうど311は金曜日で、居酒屋に下ろす魚の検品しながら「魚が欠品しなくてよかったねえ」と言い合っていた。そしたら急にどーんときちゃって。一瞬なにが起きたかわからずに、心筋梗塞でそろそろ死ぬのかなと思った。そしたら地震だった、橋がぐらぐら揺れてね。やばいと思って会社戻ったら、ぼこぼこぐちゃぐちゃになってた。家も心配だったので、帰ったら、娘とばあちゃんが泣いていてね。震災直後は電源がいきてたんで、テレビみたら、津波の映像がばーんて流れてて、こりゃくるなあと。外に飛び出たら、「おおつなみ―、おおつなみ―」と、パトカーが叫んでる。でもみんな、津波が来ても浸水するくらいのイメージしかなかった。実際はこうだったんだけどね。
髙橋:で、俺は、高台に行って海を見たんだ。そしたら、津波が白い一本筋になって、わーってこっちくるんだよ。もともと相馬には船が500艘ほどあったんだけどね。東北の中では、この地域は船を結構逃がせた方だったんだけど、でも流されて行くものも見た。みんな知り合いだった。うちのばあさんは家の庭にいたんだけど、胸まで水につかってしまって、背負って逃げた。たまたま前日に「相馬に15mの津波がくるぞ」なんて冗談で言っていたんだけど、それが本当になっちゃったんだよね。
-そのあと原発事故が起きたんですよね。
髙橋:14日に、メルトダウンがどうこうと報道があったんだけど、よくわからなくて、爆発するみたいなイメージだった。自衛隊も逃げるって言って、仙台に逃げる人も福島に逃げる人もいて。推定5000人くらいはここから離れたと思う。俺は車も流されちゃって、逃げるに逃げられなかった。うちの嫁の実家が秋田だったんで、「助けにいくぞ」って来てくれて、長女とばあちゃんを逃がしたんだよね。
-そんな状況の中で、はらがま朝市はいつからはじめたんですか。
髙橋:最初は結構余震があって、自分の工場が心配だから見に行ってみては、揺れるたびに走って逃げていた。だんだん落ち着いてくると、人力じゃ片付けられなくて、これどうしようと。自分の家だけはなんとかと家をまず片付けはじめたんだけど、工場はなかなかね。報道では、放射能がうんたらかんたら言ってて、瓦礫かたづけるの意味あんのかなと頭の隅で思ったりもした。で、俺らどうしようと思っていたときに、新潟の30年来の知り合いが「俺の工場こいよ、こっちで魚関係の事業やれや」と言ってくれて。4月に新潟行ってみたんだ。風呂に2週間ぶりで入れた。ビールとさしみがうまかったなあ。その時ね、魚をみんなに食わしたいなあと思ったんだよね。1人で食っても罪悪感があってさ、自分の娘や仲間に食わしたいなあ、みんなで食いてえよなあと。
-その体験が朝市につながった。
髙橋:そのまま新潟で魚の事業やりゃよかったのかもしんねえけどさ、戻って朝市はじめたんだよ。まあ流されて車もねえし、テントもねえし、商工会なんかに貸して貰って。なんかをやんなきゃいけないと、とにかく思ったんだ。朝市やって1年くらいは支援物資との闘いだったね。仮設もコンビニも物ないし、全国から提供いただいた物資を、ひたすら配っていた。炊き出しもそこでやってたんで、その応援で土日に来てくれるボランティアも多くて。1日に来てくれるお客さんが1000人以上を超える日もあって、そこでいろんな人との出会いがあったね。おっしー(押田さん)とも、この朝市で7月に出会った。
-最初は支援物資を配るところから始まっているんですね。
髙橋:7月にリヤカー行商隊を作って活動していたんだけど、なかなか朝市でお金の算段がたたなくて。やめようかなと悩んでいたときに、県の絆づくり応援事業で2000万円ほど予算がついて28名を雇用して相馬市内の仮設住宅1500戸全戸を、毎日声かけ訪問していたんだよ。で、格安で食べ物や物品を販売して、買い物弱者支援を行っていたね。
-では、押田さんのお話もお聞きできたらと思います。今は復興支援センターMIRAIの所長をやられているとのことですが、もともとは東京にいらっしゃったんですよね。どういうきっかけで東北に?
押田:もともと東京では結婚式関係のイベントの仕事をしていたんですが、今までの人の繋がりや経験を活かしてこの大災害に立ち向かうことを自分の使命と考え、震災当日から活動を始め、3月14日にはリスマイルプロジェクトというプロジェクトを立ち上げていました。エンターテイナーが被災地でパフォーマンス活動を行うというものです。相馬はらがま朝市には、第4回目の朝市の時にはじめて来たんです。そのときにあんまりにも企画がお粗末だったので、もっとちゃんと企画いれないとだめだと思って、そこから毎週顔を出すようになって。
髙橋:朝市の出し物は、最初はずっと俺のマイクパフォーマンスでしかなかったんだよね。おっしーが企画に入ってくれてから、和太鼓だとか歌謡ショーだとかダンスだとかを朝市でやれるようになって。最初は何しにきてるんかよくわかんなかったんだけどね。けどとんでもない事態だから、俺だけじゃできないんだもん。どんどんまかせたし、ありがたかった。
-緊急支援の段階が終わったら東京に戻る人も結構いたと思うんですが、押田さんは、そのフェーズで終わらなかったんですね。なぜ残ったんですか。
押田:そうですね。はらがま朝市は結構人の出入りが激しかったので、「このままで大丈夫かな、つぶれないかな」と、ほっとけなかったっていうのもありますよ。あとは僕がプロジェクトを立ち上げたときに懸念してたのは、1~2年後の自殺者のことでした。だから最初コミュニティ支援を手がけて、そのあとは産業支援が重要だと思ってやりはじめまして。
-復興支援センターMIRAIはどういった経緯でできたんですか。
押田:この報徳庵というレストランが開業できたのが、震災から1年後の311なんです。で、このレストランの上に事務所を作って、もともとは生活相談窓口をやっていて。いろんな相談が来るけど、他に生活相談を受けている場所もなかったんで、ここは絶対つぶしたらだめだと思ってやってきたんですね。その中で、産業支援を伸ばしながら昨年8月に復興支援センターMIRAIとして立ち上げて、今の形になってきました。外部の方達とイノベーション東北(※グーグルがサポートする東北支援活動)の開催をしたり、「そうま未来づくりミーティング」と名付けて地元の事業者さんたちと集まったり、コミュニティとして機能してきているかなと思います。コミュニティ支援をやりつつ、産業支援にシフトしていきたいですね。ゼロから1を作るところを一緒にやりながら、サポートしていけたらなと。
-産業支援をちゃんと仕事にしていけるといいですよね。5年10年と、地域に必要になっていくイメージでしょうか。
押田:事業者が、「俺たち、頑張ったらできるぞ」というモードになったとき、必要なくなるんだろうなと。早くて5年はかかると思いますが。本当は、復興って名前もとりたくて、ゆくゆくは民間の産業支援センターみたいになっていくかなと思います。
-右腕に任せていきたいことはどういったことでしょう。どういう方が参加してくれると嬉しいですか。
髙橋:外に向けての発信をしていきたいんですよ、今やっているようなミーティングもそうだし、何を話し合っていて、今ここがどういう状況かを。参加している事業者の声も届けていきたいし、毎日ブログを書くでもいい。スキルとしてはそういうクリエィティブなことが出来る人が来てくれると嬉しい。気持ちの面では、作れることができる人間かな。「助けよう」という気持ちで入ってくるんじゃなくて、「仕事つくろうぜ」って言える人。そうして楽しみながら、雰囲気や仕事を作っていける人。
-地域に必要なのは「よそもの・わかもの・ばかもの」とも言われていますけど。外部から地域に入っている押田さんは、どういったことを大事にしていますか。
押田:よそものの視点が必要だというのは、最近になってより強く感じています。よそものだからこそできることがありますし、そういった視点は大事にしていますね。あとは、「被災地をどうにかしてやる」って思いが強すぎると潰れる気がしますね。まちの人も意外と適当だったりします。支援という色が強いと寄りかかられてしまう側面もありますし、外からの視点は持ちながらも、こっちの事業者さんと同じ目線でやってます。
-右腕や地域の人々とも一緒に、どんな新しい仕事を未来に向けてつくっていきたいですか。想いやメッセージを聞かせてください。
髙橋:俺自身はできれば魚関係の仕事をしたい。やっぱり息子に家業をつがしたいっていうイメージがあったんですよ。この相馬で、髙橋家をついでくれって。俺もそう言われて反発して逃げた人間だし、本当に生きたい人生を生きてみたらとも話しているんだけどね。あとは、やっぱり地元の仲間の応援だね。俺も何回かチャレンジはしているけど、まだ震災前のお客さんは誰1人戻ってきていない。今の相馬では、やり方やコミュニケーションを変えていかないといけない。地道な営業も必要。最近新しい社団法人を立ち上げたんだ。惣菜を売っている飯館のお母ちゃんや、昔の水産加工の仲間たちと一緒に。それぞれの持っているお客さんがいるから、魚を売る時に惣菜も一緒に売るとか。これからは自分だけではダメ。オール相馬、オール福島でやっていかないと。そういったことも、時間ができたらもっとやりたい。
福島第1原発を廃炉にするのは、早くて30年後とはっきり言われていて、俺はもう生きちゃいないんだ。でもやることは、もう本当にいっぱいある。既存のやりかたや売り方じゃ福島はもうダメだし、新しい仕事を作っていかないといけない。俺はね、過去を語りたくない。どこまで持つかわかんないけど、やりきったときの満足感が、人間として生きる価値があると思う。朝市もね、辞めなかったから今ここに至っている。やりきってダメだった時には、息子やおっしーにバトンタッチできるからね。
押田:俺は、地域に対して方向性をつくりたくないなと思っているんです。地元の意図は地元で選択して選んでいってほしいし、これまで魚関係の仕事をやってきて、それがやりたいのであれば、やってほしいし応援したい。もちろんこれまでどおりに1次産業だけでは難しいかもしれないけど、2次産業や3次産業を組み合わせて突破口はあると思うし、そうしてつくった仕事が地域の誇りになっていけばいいですね。
髙橋:やっぱりね、支援づけになっておかしくなってしまった部分があるんだ。放射能の関係で保証金が1億2億おりたとしてもさ、何もしなかったらこの町に仕事はなくなってしまう。次の世代に残すものがなくなってしまう。この地域はどうやって生きるかっていうことを、いま考えていま作らないと。大変な状況だけど、ここには笑いがあるし、笑顔がある。相馬をどうにかしたいと思ってても1人だけではできないからさ、一緒にやってくれる人が増えてほしいんだよね。
聞き手:山内幸治(NPO法人ETIC.ディレクター)/文:田村真菜(NPO法人ETIC.)
記事提供:みちのく仕事(NPO法人ETIC.)
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