南三陸町災害ボランティアセンターの活動拠点が高台移転の造成工事に伴い3月いっぱいで閉鎖されるのを前に、町と町社会福祉協議会がこれまでのボランティアの活動に感謝の意志を示そうと「南三陸ボランティア 感謝の集い」を町内で開催した。40都道府県から1000人を超えるボランティアが駆けつけ、4年間の足跡を振り返るとともに、今後の新たな関係性づくりへ結束を深め合った。
3月15日、「あの日」から4年が過ぎた南三陸町は、ボランティアの再訪を歓迎するかのような晴天に恵まれた。会場では町職員らがボランティアを笑顔で迎え入れ、久しぶりの再開に自然と会話が弾む。式典は、そんな和やかな雰囲気の中でスタートした。
ただ、ほどなくして会場の空気は一変する。被災直後のガレキと化した町の様子や、その後少しずつ再生していく景色を回想する映像が流れると、会場は途端に静まりかえり、泣き声や鼻をすする音が響き渡った。
直後に登壇した佐藤仁町長は開口一番、「おかえりなさい!」と威勢よく発して歓迎の意を示した。ただ、映像の余韻が会場を包み込む中、涙で次の言葉が出てこない。しばしの静寂の後、「町民は絶望の日々を過ごし、『明日』という言葉が浮かんでこなかったが、皆さんがひたむきに支援する姿が希望の光になった」と述べ、ボランティアは「明日」に灯りを照らす存在だったと回想すると、「復興の足取りは一歩一歩だが、着実に前に進んでくることができた。これはボランティア一人ひとりの力の賜物だ」と感謝の言葉を送った。
一方、支援する立場のボランティアも、同じ「感謝」の言葉を口々に発した。現在まで3年9カ月超に渡って活動を続けているボランティア団体「カリタス米川ベース」(登米市)の千葉道生さんは、「被災しながらも、いつも温かく迎え入れてくれた」と町民らに感謝し、「ここで多くの人と出会い、一緒に汗を流し、笑い、ときには涙した。たくさんの思い出がある」と感慨深げに語った。また、東京から出席した生田久也さんは、「まだ復興は終わっていない。この町が明るく活気ある姿に生まれ変われるよう、力を合わせて盛り上げていきたい。『もうボランティアのすることはないから来なくていい』といわれるまで来るつもりだ」と力強く支援の継続を誓った。
式典会場の外では、町職員や住民らが地元の食材を使った鍋料理などを振る舞い、ボランティアをもてなした。企画に携わった町保健福祉課の工藤明広さんは、その様子を見ながら「少しでも恩返しができないかという思いだった。これからも足を運んでほしい」と願った。
「支援」から「協働」へ、新たな「つながり」を
災害ボランティアセンターは震災直後の2011年3月末に設立され、初年度に5万6000人を超える個人・企業・団体ボランティアが集まるなど、今年2月末時点で延べ14万3000人を超えるボランティアが支援に加わった。ガレキの撤去や避難所での炊き出し、農業や漁業支援、さらには仮設住宅での巡回など支援内容は多岐にわたり、現在も継続されている。
3月いっぱいで活動拠点のテントは撤去されるが、これを機に「災害」の文字を取り払い、名称を新たに「ボランティアセンター」として活動そのものは継続させる。ただ現在は、時間の経過とともにボランティアが訪れる機会は少なくなり、2014年度には1万4000人にまで減少しているという。そのため、町社会福祉協議会の阿部東夫会長は、「コミュニティの再生や人口流出による高齢化など、まだ外部支援が不可欠だ」とボランティアの必要性を強調。猪又隆弘事務局長も「細く長く支援してもらいたい」と息の長い支援を願う。
そうした中、町や町観光協会などは町民とボランティアをつなぐ特設サイト「南三陸応縁団」を4月下旬に開設することを明らかにした。名前などを登録すると「応縁団(員)」に加わることができ、まちづくりや産業復興などに関する人材の募集やイベントの告知に活用するなどして相互の交流を活性化させようという狙いだ。団員を対象に行うイベントは、町の自然や食などを満喫してもらえるような内容を計画しているという。また、全国各地で開催する復興イベントなどでスタッフとして一緒に活動してもらうことも想定している。担当者によると、「つながり」を大事にしたいという思いから、あえて「縁」という文字を当てはめた。
「支援」から「協働」へ――。復興のフェーズに合わせ、支援のニーズは変化してきている。ボランティアも、今後は交流人口の増加やまちづくりの担い手として復興に貢献できる存在へと進化していければ頼もしい。南三陸町とボランティアの交流は、カタチを変えながら、新たな段階へと歩を進める。
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