福岡市・玄界島の 住民代表が導いた震災復興に学ぶ【中】

3.建設工事~全員帰島 長く感じる復興期間。関心を持続する工夫

復興委員が発行した『玄界島復 興だより(』上)と、読売新聞が毎 日発行してくれた『島だより(』下)。

代表者が決まり、復興が推進され始めると、次第に島民の復興事業への関心が薄れていくことが懸念された。そこで復興委員は、ユニフォームとして揃いのジャンパーを着用することに。青いジャンパーを見かけた住民は「ご苦労さま」「今日はどこ行くと?」と声をかけやすくなる。つまり活動の「見える化」を行い、島民の復興事業への関心を保つ努力をした。

次に行った施策が、島の復興の進捗を伝える広報誌『玄界島復興だより』の発行だ。事業計画の分かりやすい解説から、会議の議事録、工事の進行状況などを丁寧に執筆・編集。印刷は市が行ってくれた。また、大手新聞社の読売新聞も協力の手を差し伸べてくれた。記者が島に張り付き、島の様子を毎日伝えた『島だより』という1枚(両面)の新聞だ。クレーン車が作業する様子から、腹を空かせた猫の話題まで、さまざまなトピックと懐かしさ漂う写真は、島を離れ町に暮らす島民の心をつなぐ役割を果たしてくれた。

震災後の活動をまとめると、復興委員会の会議は計68回。島民総会は年3回の計9回。島だよりの発行は不定期で計16回。こうして、震災から3年後、3月20日の全員帰島をもって、玄界島が復興を遂げた。

エレベータを共有にし、各 棟を渡り廊下でつなぐ工夫 も。経費節減と交流の場づ くりに。

新しい玄界島は、切り土で段々畑状になった斜面地に戸建住宅を造成し、平地には集合住宅を配置。集合住宅のエレベーターを使えば、渡り通路で高台の戸建て住宅エリアに出ることができる。港や郵便局、漁協、購買店(スーパー)のある中心部に、集会所、高齢者のケアセンターなどを整備。高台の一番上には、新たに小中合同になった学校が完成した。その学校から平地へとつながるように、自動車が通行できる道路も緊急時を想定して整備された。島に乗用車はほとんどないが、自治会が管理する「もやいカー」なるカーシェアリングの仕組みも登場。利用は一回500円だ。また神社の修復については、助成対象とならないため、全島民の義捐金から5万円ずつを集め、不足分は福岡ソフトバンクホークスがチャリティマッチを行い入場料を寄付してくれたことで修復できた。リーダーたちの汗と、住民の想いで復活したこの島で、新しい歴史が刻まれていく。

4.取材を終えて

「後悔があるとすれば……」。獲れたての魚と焼酎をいただき、夜も更けてきた頃、細江さんが語り出した。「以前は2軒あった旅館が、復興後ゼロになってしまいました。経営者の高齢化で、後継者もおらず、もう営業を再開する意志がなかったためです。しかしそれでよかったのか。島の将来的な観光業について皆で議論し尽せなかったことが悔やまれます」。島民総会では、やはり個々人の住居や生活に関する議題で時間が取られてしまった。基幹産業の漁業については活発に議論され、ブランド創出などが復興ビジョンに盛り込まれたが、それ以外の観光業や、まったく新しいものも含めた「未来の島の想像図」を自由に描いてみる余裕はなかった。これでは十分ではなかったと、細江さんは振り返る。玄界島では、大規模な整備が完了した今、例えば旅館を建てること一つをとっても容易ではない。

復興の真っただ中では、住民の住宅・インフラ整備と生活再建、防災対策がどんな地域でも第一かつ至急の課題になってくる。玄界島は人口流出を食い止めようと、異例のスピードで生活環境を整備したが、それでも70人・20世帯が島に戻らなかった。また、復興後から現在までで、60人が高齢で亡くなったという。どうしたら若い世帯が残るのか、どうしたら将来戻る人・移り住む人を増やせるのか、どうしたら魅力と活気あるまちになるのか、5年後・10年後の姿を描くことも、大変だが復興計画と同時に行われることが大事なのだと感じた。

まちづくりに哲学と夢を

玄界島の島民に話を聞いたところ、中には「以前の街並みのほうが、味があって好きだった」と言う人もいた。震災前は煩わしいとさえ思った、隣の生活が聞こえてくるような近さ、誰もが戸を開け放していた気軽さは、防災のため家々の間隔を空けたことと、新築の立派な塀や扉によって、少しよそよそしいものに変わってしまったという。挨拶が交わされ、島民が近所の家を行き来する様子は、都市部の暮らしと比較すればずいぶん温かみのあるものに感じたが、以前の島の暮らしはもっと人々が密接に寄り添っていたのだろう。

「どんな暮らしが、我々にとって幸せなのか」。これを持っている、もしくはこれを話し合えた地域は強いのだろうと感じた。「なにが幸せか」、つまり哲学を。きっとその答えは一つではない。それぞれの地域の歴史や風土に基づき、住宅や道路といったモノの前に、生き方や精神についての合意形成がなされたなら、その復興ビジョンはきっと色あせないものになるのだろう。

それには導く人が必須であり、その人を支持・協力する住民の姿勢が求められる。玄界島のように、住民が自らリーダーを選ぶ形は理想的だ。そうでなくとも、志を持ったリーダーが住民を引っ張りながら、地域の有力者や議員など「この人が言うなら」と住民が思うキーマンに協力を要請するのも有効だろう。また住民アンケートも、会議では遠慮してしまう若者や女性も意見が出せ、集計することで一つのデータとして説得力を持つツールとして活用ができる。

復興に重要なのは「よそ者、若者、バカ者」だとも言われるが、そのような既存の考えに囚われない人材を積極的に巻き込むことで、大きな気づきになる可能性がある。例えば「若者」は、子育て環境を整え若い同年代が戻ってくる施策を考え出すかもしれない。「よそ者」は、住民には分からない地域の魅力を観光資源として見出すかもしれないし、都市部の人々の田舎暮らしへの憧れを踏まえ、農業指導や農地の貸し出し、民泊や移住用の住宅整備を提案するかもしれない。はたまた世界を放浪してきた「バカ者」が、世界中からバックパッカーが集まるアウトドアの森をつくろうなどと突拍子もない夢を描くかもしれない。玄界島は、全島民アンケートやコンサルタントの意見を取り入れた素晴らしい事例だが、もしも意見を、例えば福岡市中心部に住む高齢者やファミリー層、クリエイターの若者たち、釣り好きの人々などにも聞いていたら、また違った島の形があったのかもしれないと勝手に想像した。正解などない、それだけに、地域性を大事にしながらも既存の枠に囚われない意見を取り入れ、夢を描く姿勢が、人口や産業が先細りする厳しい現実を前提とした「守り」のまちづくりから、豊かさにあふれ、外から人が住みたいと入ってくるような「攻め」のまちづくりにベクトルを転じる可能性の一つだと改めて感じた。

(取材・文/編集部・本間美和)

【特集】福岡市・玄界島の 住民代表が導いた震災復興に学ぶ(上)

【特集】福岡市・玄界島の 住民代表が導いた震災復興に学ぶ(下)〜行政側の声〜

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です