日本の戦後の歴史の中で、これほどまでに、漁業がメディアにとりあげられたことはなかったのではないでしょうか。被災地を訪れた人たちの多くは、がれきの町から海を眺めただろうと思います。船の上で仕事をすることや、普段はスーパーで買うことしかないワカメや牡蠣が海の中でどんな風に育っているのかを、震災をきっかけに知った人も少なくなかったと思います。海との関わりの中で、ひとが、どんなに豊かな営みを享受していたのか、もっと知ってほしいと思います。
人間が、村をつくって暮らしはじめたのはいつのことだったでしょう。
圧倒的な自然の中で、わずかばかりの人々が集まって、肩寄せあって生きていたのだろうと思います。いつの時代も、コミュニティは、集団でいることによって何がしかの外的リスクを回避するためにつくられてきました。コミュニティが肥大し、巨大な都市社会に生きる私たちは、人間社会を過信していたと思います。私たちの傍らには、依然として圧倒的な自然があったことを、この震災は教えました。
産業化社会の壮年期を迎え、日本列島全域が、縮小化の時代を迎えると言われています。人口減少にともなって、国内の労働市場も小さくかたちを変えてゆきます。いきおい、ハイリスクを背負って海外市場へ打って出るという手段がなければ、大量生産、消費社会では適応できなくなることを意味するでしょう。けれども、その「事実」に向き合った社会構想は、いまだ途上のままです。
どんな未来を描くのかは、いまを生きる私たち次第なのですが、経済成長の中で蓄積してしまったリスクをやり繰りする作業なしに、この未来の絵は描けないと、私は思っています。震災以後、私たちは、もはや逃れようのない「責任の環」の中で生きることを余儀なくされています。この「責任の環」とは、誰かが、どこかで問われたり、裁かれるという意味ではありません。それは、過労に裏打ちされた病気や自殺率かもしれないし、環境汚染や食の不安、あるいは金融恐慌かもしれない。そうした社会のリスクをいかに分散しながら、これ以上無用なリスクを増やさないように社会を維持していくかが問われているように思うのです。
もし、いま東北から、もうひとつの社会構想の手がかりを見つけるとするならば、それは、立ち上がりつつある農漁業にこそ、ヒントがあると思います。農漁業は、単に食べものをつくる仕事ではありません。都市と地方の「命」をつなぐ仕事、海や土と人をつなぐ仕事でもあります。海や土に働きかけて、そこから命の糧を得る仕事においては、自身の取り巻く環境に無頓着ではいられません。時に風を読み、潮や空の表情をうかがうことは、己を取り巻くリスクを理解するための不可欠な能力です。
そうした能力が、都市社会の中で問われることはほとんどありません。とりわけ、漁師の仕事は「板子一枚下は地獄」と言われてきました。小さな船ひとつで、大海へ漕ぎ出す仕事は、圧倒的な自然に身を委ねる生き方でもあります。「自然」から奪う命の責任を、自ら負っているということなのかもしれません。いまは傷んだ海や土を回復しながら、人がどう生きればいいのか、私たちの足もとに未来が見えると思います。
【プロフィール】山内明美
宮城県南三陸町出身、大正大学人間学部 特命准教授。一橋大学大学院言語社会研究科博士課程在籍のまま現職。専攻は歴史社会学、近代「東北」研究。著書に『こども東北学』ほか。Face book : 山内明美(Akemi Yamauchi)