東北のいまvol.16 リアス・アーク美術館常設展 「東日本大震災の記録と津波の災害史」 残すこと、伝えること。

気仙沼リアス・アーク美術館は少し小高い丘の上にあり、空を近く感じる。幼い頃イメージした近未来を懐かしむような建物の細長い廊下を歩きホールに入り、地下の展示室に入る。

常設展、「東日本大震災の記録と津波の災害史」が4月3日に公開。館としておよそ2年ぶりの全館再開となった。この展示は、学芸員を中心とした2年間の調査活動を通し、撮影した約30,000点の写真、収集した約250点の被災物の中から厳選した資料と、加えて、江戸時代・明治時代にも起きた過去の震災資料から構成されている。

展示室に入ると静けさが増し、数は少ないが、少し歩いては止まるを繰り返す足音が聞こえる。ピンライトの黄色い光が照らす室内の壁には、震災直後のガレキで埋もれた街の写真が並び、写真の中の清々しいまでに青い空が呆けたように一層とその様を浮き彫りにする。写真から目を外せば遺物が見える。その多くが一般家庭にある日用品だが、よく見知っている形のままのものはない。カサブタのような赤黒いサビが浮き、大きな力が加わりひしゃげ、曲がり、割れている。

日用品の遺物それぞれには、ある人の独白の一葉が付けられている。それは家族を思った言葉や以前の生活を振り返る言葉。その一つ一つには持ち主がいて、一人ひとりが日常を送っていたという当たり前のことを改めて思わされる。

展示の案内には、こう書かれていた。「被災現場では、足元を埋め尽くすさまざまな日用品が、私たちに何かを語りかけてくるように感じました。その言葉を物語として表現し、それぞれの被災物に添えています」。なるほど。要は、作り話ということ。ただ、その道具一つ一つに持ち主がいて、その一人ひとりに物語があるという事実は変わらない。

少しずつ復興は進み、街からは震災の跡が少しずつの見えなくなる。「慣れ」が見えなくするものもあるだろうと思う。展示された写真・遺物を見て、初めて訪れた時に感じた、決意にも似た感情を思い出した。 

学芸員の山内宏泰さんが一言、「取材してくださった記者にお願いしていることがあります」。それは「ここで感じたことを自分なりに言葉にしてほしい」というものだった。伝えることの大切さは記者に限ることではない。ここを訪れれば皆、何かを感じざるをえない……それは努めなければ言葉にできないほど、単純な感情ではない。でもそれを伝えていくことが、本当の意味で「残す」ことにつながる。

写真・文=岐部淳一郎

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